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「八海事件」

2009/01/03 05:37

 

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「八海事件」
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage27.htm

-経緯-
昭和26年1月24日の夜、山口県熊毛郡麻郷村八海で、瓦製造業の早川惣兵衛さん(当時64歳)と妻のヒサさん(当時64歳)が殺され現金17000円が盗まれる強盗殺人事件が発生した。

警察は、事件から2日後の26日未明、同村八海の土木作業員・吉岡晃(当時22歳)を逮捕した。吉岡は遊び好きで、借金に困り知人の早川宅に盗みに入ったが、顔を見られたため斧で顔をめった打ちにして惨殺した。吉岡は早川夫妻の夫婦喧嘩に見せかける工作をしたが、吉岡の衣類に返り血の付着と飲んだサイダーのビンから指紋が検出され吉岡が逮捕されたのだった。

-悲劇-
吉岡逮捕までは、警察当局も迅速で的確な対処であったが、ここから警察は大失態を犯す。警察は、犯人の吉岡が夫婦喧嘩に見せるため工作した現場の荒らされ方を見て、吉岡単独犯行とは考えにくい。よって複数での犯行であると勝手に推測したのだ。吉岡が単独犯行を認めて自供しているのにである。

そこで、警察は吉岡を取り調べ室で足の下に警棒を4本も入れて正座させ警官がその足にドスン、ドスンと乗って「おまえは嘘をついている。このままでは死刑になるぞ、他の犯行仲間の名前を白状しろ」と拷問を続けた。結局、気の弱い吉岡は仕事や遊び仲間である阿藤修平(当時24歳)、稲田実(当時23歳)、松崎孝義(当時21歳)、久永隆一(当時22歳)の4人の名前を上げてしまった。この供述によって4人は逮捕された。

しかし、証拠は吉岡以外には出てこない。そこで警察は4人に対して拷問の限りをつくした。その結果、4人は犯行を自供、しかも阿藤が主犯として決め付けられてしまった。

-異常な公判-
昭和27年6月山口地裁岩国支部は検察側の主張を認めて阿藤死刑、吉岡ら4人に無期懲役を言い渡した。吉岡を除く4人は控訴した。検察側も阿藤を除く4被告について控訴した(検察側は全員の死刑を求刑)。昭和28年9月広島高裁は阿藤の死刑、吉岡の無期懲役を支持しながら、稲田を懲役15年、松崎、久永を懲役12年に減刑した。

これに対して吉岡は上告取り下げで無期懲役が確定。阿藤ら4人が上告した。昭和32年10月最高裁は「原判決に重大な事実誤認がある」として原判決を破棄して広島高裁に差し戻した。

広島高裁は裁判のやり直した結果、阿藤ら4人が吉岡と共謀したとは認めがたく吉岡の単独犯行として4人に無罪を言い渡した。これに対して検察側は事実誤認として上告した。

昭和37年5月最高裁は一転して明らかに複数の犯行であると認めて再び広島高裁に差し戻した。広島高裁は2度目のやり直し裁判で昭和40年8月阿藤ら4被告も共犯者であると認定し阿藤に死刑、稲田に懲役15年、松崎、久永に同12年を言い渡した。

阿藤らは3度目の上告をした。その結果、昭和43年10月25日最高裁は証拠不十分を理由に原判決を破棄し無罪を言い渡した。最高裁が下級審の事実認定を覆し無罪を言い渡したのは裁判史上初めてのことであった。

-矛盾-
この異常な公判は市民も疑問を抱くようになり、弁護士の正木ひろし、原田香留夫が立ち上がった。正木は、1、2審の事実認定に多くの不合理を指摘した。その内の1つとして、犯行に及ぶ時間軸の矛盾を追及した。

吉岡の供述では、犯行当日の午後10時40分頃、5人が八海橋に集合して犯行の役割分担を確認し午後10時50分頃早川宅に侵入し犯行に至ったという。この10分間に八海橋で共同謀議して早川宅までの600メートルを歩き、侵入口を探して凶器を見つけて犯行に至ることは物理上不可能であることを正木弁護士は主張した。

正木弁護士は、この異常な公判を「裁判官」というタイトルで出版しベストセラーになる。映画会社はこれを基に「真昼の暗黒」というタイトルで映画化して多くの国民の知るところとなった。

何とか4人の有罪を立証しようとした検察は4人のアリバイや矛盾点を完全に無視し、偽証の証言者を作り上げたり、被告に有利な証言者に対し偽証罪で次々に逮捕するなど凄まじいデッチ上げを昭和33年から40年まで続けた。この事実が晒しだされて、警察、検察の横暴と司法の怠慢に世論の非難が集中した。

結局、吉岡は警察に強要されて無実である4人の名をあげたとする「吉岡上申書」が提出され、昭和43年10月25日、最高裁で幻の犯人である阿藤ら4人は無罪を勝ち取った。阿藤は死刑と無罪という異常な状況に追い込まれた。人間が人間を裁く難しさを改めて浮き彫りにしたこの事件で、阿藤らが無罪を勝ち取るのに事件から18年の歳月が経っていた。

http://jiten.biglobe.ne.jp/j/ec/90/c0/45d89df5cc20ae1296de5ebb53feec84.htm#.E4.BA.8B.E4.BB.B6.E3.83.BB.E6.8D.9C.E6.9F.BB.E3.81.AE.E6.A6.82.E8.A6.81
事件・捜査の概要
1951年1月25日、当時の山口県熊毛郡麻郷村(現在の山口県田布施町)八海で夫婦が殺害され金銭が奪われた強盗殺人事件が発生した。夫は斧で頭部その他多数の個所の切傷と出血により殺害され、妻は鼻と口を塞がれて殺害された後、首を吊った状態で発見された。犯行現場からは被害者の近所に住むA(当時21歳)の指紋が検出され警察はAを逮捕した。警察の尋問に対してAは犯行を認め、Aの着衣から被害者の血痕が検出され、Aの供述により夫の殺害に使用した斧も発見された。だが、警察はこの事件は複数人の犯行であると推定し、Aに対して警察の尋問室の密室の中で拷問を行い、共犯者に関する供述を強要した。
Aは警察がこの事件が複数人の犯行であると誤解していることを利用して、自分に対する量刑を軽くしたいという動機で、自分はこの事件の犯行に関して従属的な立場であったと供述し、友人・知人のB(当時24歳)、C(当時23歳)、D(当時21歳)、E(当時22歳)が共犯者であり、Bが主犯であると虚偽の供述をした(後年、Bらの弁護士にAが次のように語っている。「自分ひとりで犯罪を行ったと何度主張しても、警察からまったく相手にされないどころか嘘をつくなと拷問を受け、「共犯の名前を言わないと死刑だ」と脅され、死刑の恐怖と仲間への裏切りに悩み、死刑回避のために仲間の名前を言ってしまった」)。
警察はAの虚偽の供述に基づいてB、C、D、Eを逮捕し、警察の尋問室の密室の中で 線香で首を炙る、軍靴を改造したスリッパで殴る、棍棒で殴る、食事睡眠を一切あたえない。などの拷問を行い、被害者夫妻を殺害したとの供述を強要した結果、この事件をBが主犯でA、C、D、Eが従犯とする虚偽の供述調書を作成し、その旨を報道機関に公表した。

裁判の経過・結果
裁判ではAは自らに関する起訴事実を認めた。しかしB、C、D、Eは捜査段階で警察官に拷問され、虚偽の供述をさせられたが、自分はこの事件に関していかなる関与もしていない、無実であると主張した。裁判は下記のとおりの経過・結果になった。またAは無期懲役確定後、刑務所から自分の単独犯であると上申書を17通、最高裁判所に送っていたが、すべて刑務所の職員が破棄していたことが後に判明。
    1952年6月2日、山口地裁はBに死刑、AとCとDとEに無期懲役の判決をした。B、C、D、Eは無実を主張して控訴し、検察官はAとCとDとEに対する量刑が無期懲役では軽いという理由で死刑を求めて控訴した。
    1953年9月18日、広島高裁(第一次)は地裁の事実認定を支持し、Bに死刑、Aに無期懲役、Cに懲役15年、DとEに懲役12年の判決をした。Aは上告せず、検察官もAに対しては上告せずAの無期懲役が確定した。B、C、D、Eは無実を主張して上告した。
    1957年10月15日、最高裁(第一次)は審理を高裁へ差し戻した。
    1959年9月23日、広島高裁(第二次)はこの事件をAの単独犯行と認定し、B、C、D、Eに無罪判決をして、B、C、D、Eは8年8ヶ月間の身柄拘束から釈放された。検察は上告した。
    1962年5月19日、最高裁(第二次)は審理を高裁へ差し戻した。
    1965年8月30日、広島高裁(第三次)は第一次高裁と同じ、Bに死刑、Cに懲役15年、DとEに懲役12年の判決をした。B、C、D、Eは無実を主張して上告した。
    1968年10月25日、最高裁(第三次)はこの事件をAの単独犯行と判断し、B、C、D、Eに無罪判決をして、この判決が確定した。

事件が与えた影響・教訓
第一次高裁判決後、正木ひろし弁護士、原田香留夫弁護士は、この事件で起訴されたB、C、D、Eは無実であると認識し、弁護人になった。正木は著書『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』を発表し、原田は著書『真昼の暗黒』を発表して、この裁判の冤罪性を国民に訴えた。映画監督の今井正は正木と原田の著書をもとに、映画『真昼の暗黒』を製作・公開して、この裁判の冤罪性を国民に訴えた。この著書と映画による告発により、八海事件と裁判の冤罪性は多くの国民に認知された。
警察による5人の犯行であるとの見込み捜査により、4人の被告人は無罪判決は得たが、8年8月間の身柄拘束と、無罪確定までの18年9月間の多大な精神的苦痛・不安、社会的不利益を受けた。
検察は有罪判決を獲得するために、Bの無実を証言した、事件当時のBの事実婚の元妻や、B、C、D、Eに有利な証言をした証人を偽証罪で逮捕し起訴するなど、検察の面子と主張を守るためだけの権力の乱用を行い、多くの国民や報道機関から非難された。
この事件の真犯人であり、単独犯であるAは受刑中に、捜査段階で供述した内容は虚偽であり、B、C、D、Eは事件にはいかなる関与もしていないこと、B、C、D、Eが共犯であると虚偽の供述をした理由は拷問により供述を強要されたからであると主張する上申書を裁判所に提出した。しかしながら第二次最高裁と有罪判決をした第三次高裁は、Aの上申書を無視し、Aの上申書にもづいた事実認定をすることもなく、検察官の主張を採用してB、C、D、Eの有罪の事実認定をした。
裁判所は地裁から第三次最高裁まで、被告人B、C、D、Eに対して、7回の判決と有罪→無罪→有罪→無罪と事実認定が変遷し、事件発生から確定判決まで17年9か月の時間がかかったことに対しても、多くの国民や報道機関から非難された。
1971年9月、Aは仮出所する。西日本の鉄工所に勤務しながら、原田香留夫弁護士の事務所をたびたび訪問していた。当時、毎日新聞の記者だった前坂俊之が、その事務所でAと出会い、彼が49歳で病死するまでの数年間、同居して事件について話を聞き出した(外部リンク参照)。


No.139 「豚に真珠」はキリストの言葉である(番組評価 70/100へえ)
聖書に書かれています。聖書にはキリストの誕生以前にヘブライ語で書かれた旧約聖書とキリスト誕生後にギリシャ語で書かれた新約聖書がありますが、この言葉が載っているのは新約聖書マタイの福音書第7章6節。そこには「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に真珠を投げてはなりません」とあり、これが簡略化してことわざとして使われるようになりました。これは「貴重な物、尊いものをその価値が分からない人にあげても無意味である」という警告の言葉です。「目からウロコ」というのもキリストの言葉という説があります。「豚に真珠」は世界の大半で使われていることわざですが、「豚もおだてりゃ木に登る」というのはタツノコ世代しか使われないことわざです(タツノコプロで落とすことが最近多くなりました。パターンにはまったオチはよくない傾向ですね)。
 

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