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給食3/3

2010/03/20 05:12

 


アレルギー対策の問題

 

2003年時点で生徒の約1.3%80人に1人)が何らかのアレルギーを申告しているが、自治体、学校側の対策は不十分な状態となっている[12]

 

対策としては

 

    * 献立を通知し、アレルギー原因食品が給食に含まれる日は保護者に弁当を用意してもらう

    * アレルギー持ちの生徒のために別途給食を用意する

    * 最初からアレルギー原因食品を使わない給食を用意する

 

などがあるが、アレルギーに無理解な学校も多いという[12]

 

学校給食費の問題

 

一般に学校給食は無償で与えられるものではなく、その費用は児童・生徒の保護者が負担することとしている。しかし昨今、支払う余裕があるにもかかわらず、意図的に給食費を支払わない保護者が問題視されており、近年テレビ番組の特集などでも多く取り上げられるようになった。給食費を支払わない保護者の言い分としては、「給食の契約を結んでいない」、「義務教育だから払う必要が無い」などが多い。なかには「催促するなんてまるで借金取りだ!」「(払ってないからといって)できるものなら(給食を)停止してみろ!」という発言も報道されている。また生活保護を受けている世帯では滞納するケースが多いという(生活保護費や就学援助費に含める形で給食費用が上乗せして支給される制度があるが、周知されていないと指摘する声がある)。悪質なケースでは、再三の支払い催促に対しても支払いを拒否しているという。

 

2007124日、文部科学省は初の全国調査結果を公表、2005年度の小中学校の滞納総額が、本来払うべき額全体の0.5%である22億円を超えた事を明らかにした。滞納者数は10万人近くで、約100人に1人が滞納していた計算となる。滞納率は県別では、沖縄県が3.8%、北海道1.4%、宮城県1.1%の順に高く、最も低かったのは、富山県と京都府の0.1%だった。その理由として、滞納があった学校の6割が、保護者の「モラルの低下」を原因として挙げている。また保護者の「経済的問題」を理由に挙げたのは3割であった。滞納者を多数抱える自治体は対応に苦慮しており、自治体や学校での未納防止策としては、給食費を他の副教材費等と一緒にし「集金」として徴収する、また、前払い式食券方式にするなどが行われている。一部の学校では児童の保護者に、給食費を払わないと給食を食べさせないので弁当を持たす旨の誓約書を書かせたことで話題になった(その後、誓約書は廃止)[13][14][15]。しかし学校給食費滞納があっても滞納しているからと給食を与えないわけにはいかないというのが実情であり、学校全体で給食の材料費を下げ、その結果品数を一品減らす等、給食の質を下げざるを得ない問題も発生している。近年では、自治体によってはこのことが給食事業の運営を逼迫させている等の問題があることから、簡易裁判を起こす、条例により支払わなかった者の氏名・住所を公表するなどの対応を取っている。給食費滞納がある一定期間を超えると、やむを得ず給食を与えないと勧告する地域もある。

 

自治体が簡易裁判所を通して差し押さえをし、法的手段に訴える動きもある。そもそも学校給食法では保護者の給食費の負担について明記されており、裁判所の判決でも支払い判例が出ている(生活保護等の困窮世帯は除く)。ただし差し押さえようと自治体や学校にもそのための費用がかかってしまうため、税金の余計な出費であり、本来は行われるべきことではないとする意見もある。給食費の支払いを巡って最高裁判所まで争われた例があるが、19642月に憲法は義務教育の授業料を無償としており、それ以外の教材や給食費はこれに含まれないという判例がでており、仮に保護者側が裁判を起こしても敗訴する可能性が高い。

 

    * 保護者が給食費を支払っていないことを理由にしたいじめが発生するのではないかと危惧する声も出始めている。

    * 山口県玖珂郡和木町では幼稚園・小学校・中学校の、北海道三笠市では2006年度より少子化対策の一環として小学校の給食費を無料としている。

 

資源としての再利用

 

給食は、残飯、廃油などを出すが、これを産業廃棄物として処理するのではなく、資源として再利用する動きが広がっている。

 

残飯は、飼料として使われる例がある[16]

 

食用油などの廃油は、バイオディーゼル燃料BDF)へ利用される(例として、栃木県 小山市[17]と神奈川県 大和市[18]を挙げる)。

 

その他

 

NPO法人「21世紀構想研究会」により、日本一の学校給食を競う全国学校給食甲子園が行われた[9]

 

病院における給食

病院食も参照

 

病院の入院患者に対して出される食事。病院においては、「食事療養」と呼ばれ、療養の給付の一つとして行われる。病気の症状に応じて、個々の患者ごとに食事の内容を変更する必要がある。そのため、細かな管理が必要となる。特に摂食制限やアレルゲンの除外などでは、非常に注意が払われており、栄養バランスと消化の良い、胃腸に負担の掛からないメニューが採用されている。内容は医師の治療に基いた献立計画を主に管理栄養士が作成して調理を行う。

 

その一方で、配膳に時間が掛かる・病院全体で一律のメニューしか出さない事から、長らくは「冷めてしまっていて美味しくない」や「食欲がそそられない」ともされ、胃腸への負担が掛からないように薄味であることもあって、あまり好意的には受け取られなかったが、近年では食生活の多様化や、医療もサービス業であるという考えもあって、集中調理でもカフェテリア方式を導入する・メニューを幾つかの種類を設けて選ばせる・配膳方法を改善するなどして、きめ細やかなメニューを温かいまま提供している病院もある。

 

老人保健施設

 

病院に併設されるケア施設で給食は病院と同一施設である場合が多い。

 

多忙な施設では、食事に薬を混ぜて出すことがあり、味の変化による食欲減衰など、利用者にストレスがかかる場合がある。また、急いで食べなければいけない場合も利用者にとってはストレスになる。

 

嚥下能力の低かったり噛むことの困難な入所者には今まではすりつぶした魚や、ほぐした魚が使われてきたが、見た目に食欲をそそるものではななかった。しかし骨をピンセット等で除去した後やわらかくなるように調理し、パックした製品が作られたことで、入所者が昔食べていたように魚を食べることができ、目にも美しいため楽しく食事ができるようになった。

 

社会福祉施設

 

特別養護老人ホームをはじめ、様々な福祉施設で給食が行われている。

 

日本の保育所

 

保育所においては、昼食とおやつが給食されている。

 

幼児に必要なカロリーを朝昼晩3食だけではまかなえないため、おやつは特に重要である。その際、以下のような事柄が注意点として挙げられる。

 

   1. 市販のジュースやスナック菓子は、与えることによって糖分塩分の過剰摂取が心配されるためあまり使わないほうがよい。

   2. 幼児は汗をかきやすいため、水分の摂取に努める。

   3. 食品添加物や残留農薬など、安全面や衛生面を特に注意する。

   4. 幼児は消化器官が未発達なため、やわらかいものや、消化によいものを与えるとよい。

 

なお、少子化対策の一環として、日本政府は2007年度より幼稚園の給食費(年間平均、約6万円(文部科学省調べ))を消費税の課税対象から外すとしている[19]

 

軍隊(自衛隊)における給食

 

世界的に軍隊や(日本の)自衛隊内部においては、勤務内容に応じて様々な形態の食事が隊員にあてがわれるが、主に基地内における給食では、勤務や訓練で消費するカロリーをとにかく補給させるため、比較的ボリュームに富む場合が多い。この場合、調理は大胆を極め、キャベツの千切りは極端に希釈した漂白剤で殺菌されたりもするという(衛生面を意識したHACCPによるものでもある)。如何なる事態でも隊員の健康状態が重視される事から、衛生面における配慮は厳密に成されているが、味覚の面ではあまり……というのは、どこでも伝統に則ったもののようだ。一説には食事を悠長に楽しんでいられない事から、早食いをさせるためだとも云われている。特にアメリカ海兵隊の新兵キャンプでは、兵は練兵軍曹よりも遅く食べ始め、且つ先に食べ終わらねばならないとされる。

 

その一方で、食事は隊員の大切なレクリエーションでもあるため、土曜日などの特定の曜日には、人気の特別メニューが組まれる場合も多く、日本の海上自衛隊における艦艇ごとに伝統のレシピが存在する海軍カレーは有名である。

 

また屋外ではレーションと呼ばれる缶やレトルト入りの食事が提供されるが、これらは屋外で手やスプーン・フォーク等の簡単な道具で食べられるよう配慮されており、高いカロリーを短時間で摂取できるよう配慮されている他、チョコレートや飴玉などの菓子類が付属している。これら菓子類は、カロリー摂取もさる事ながら、隊員の士気向上や気力の維持に役立つと考えられている。

 

日本の企業における給食

 

金融機関など内勤従業員の昼休みの外出を推奨しない企業や、郊外にある工場などでは、従業員に対し給食を支給する企業もある。その形態として、構内に食堂を設置している場合、仕出し業者が作業場単位で弁当を配膳する場合がある。この場合、飲食費は福利厚生費など企業側よりとする場合(googleが有名)と、その都度支払ったり給料から天引きされる場合とがあるが、前者は給食の一形態であるといえよう。

 

但し、業務内容から外出を推奨しない・周囲に飲食店が無いので外食しようがない企業でも人件費削減の名目で、給食を支給しないところも少なくない。このような企業の例として、社員は弁当などの形で食事を持参するか、或いは企業側が敷地内に外注業者を出入りさせ社員らに任意に弁当などを購入させるか、購買部を設置してパンや弁当・飲料を販売したり、スタッフルーム内に設置された自動販売機でインスタント食品などを購入する。

 

1990年代末〜2000年代では、経費削減から大企業でも社員食堂を外注化し、独立採算・仕入れから料理の提供までを完全に社外受託とする傾向が見られる。この場合、社員らは料理をその場で購入する必要があり、一般に言う所の給食とは異なる。

 

備考

 

商品としての給食

 

一部のホテルなどで、昔の給食を再現してメニューとして提供したところ、好評を博した。コンビニなどでも、商品化の動きがある[9]

 

脚注

 

   1. ^ 日本では自衛隊

   2. ^ 給食の財源は勧学田と呼ばれる田地からの収入で行われたが、後に荒廃したために給食の支給は行われなくなった。これに対して有力な貴族は大学別曹を設置して一族の学生を住まわせて給食を支給して、大学寮に通わせることでこれを補った。これによって大学寮からの給食を受けられなくなった他氏の学生は減少し、大学別曹からの給食を支給された学生が大学寮の学生の地位を占めて官人に任官されるようになり、平安時代中期以後には貴族・官人の特定氏族による独占化を促進することとなった。

   3. ^ a b c 『【今日のブログ】物価高騰、学食の学外人利用規制へ』2007918日付配信 サーチナ・中国情報局

   4. ^ 『北京大の学食「一見さんお断り」、食材高騰で部外者締め出し』2007920日付配信 Record China

   5. ^ 『【今日のブログ】物価高騰で、学食は別の大学へ』200795日付配信 サーチナ・中国情報局

   6. ^ 『<中国食品>病原菌・糞便つきの肉、劣悪食品ばかりの学食を内部告発—広東省広州市』2008110日付配信 Record China

   7. ^ 1節 栄養バランスが優れた「日本型食生活」の実践 3章『平成19年版食育白書』 内閣府

   8. ^ 156回国会 農林水産委員会 18 平成15626日(木曜日)(国会会議録検索システム)

   9. ^ a b c 『給食も競争時代 きょう学校一が決定 食産業にじわり浸透』2006115日付配信 フジサンケイビジネスアイ

  10. ^ いずれも名称独占資格である。

  11. ^ 20061222日付配信 朝日新聞

  12. ^ a b 『給食でショック死も食物アレルギー進まぬ対応』20061025日付配信 産経iza

  13. ^ 2006101日付け配信 産経iza

  14. ^ 2007124日付け配信 産経新聞

  15. ^ 2007125日付け配信 産経新聞

  16. ^ 『給食で学ぶ食の意味 神奈川・厚木市内の小学校 残飯飼料→豚→食材』20071024日付配信 産経新聞

  17. ^ 『給食廃油 バイオ燃料に/CO2排出抑制を期待/環境の教材化も視野/小山市が実験スタート』2008210日付配信 下野新聞

  18. ^ 第5 回加古川市議会( 定例会)会議録  20061129

  19. ^ 2007124日付配信 読売新聞

 

関連項目

 

    * 学校給食

    * 栄養士

    * 管理栄養士

    * 食中毒 - 大人数向けを一括で調理する給食は食中毒が起きると患者の人数は膨大になる。

    * 食育

    * アレルギー

    * タカ食品工業

    * モンスターペアレント

 

外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

ウィキメディア・コモンズには、給食 に関連するカテゴリがあります。

 

    * 学校給食研究改善協会

    * 岩見沢市の学校給食

    * 学校給食ニュース

    * 国連世界食糧計画(途上国への学校給食の支援)

    * 学校給食の歴史日本編

    * 学校給食のルーツを探れ! 鶴岡市学校給食センター(学校給食発祥の地)

 

 

No.579 医師免許があれば麻酔科以外はどの科でも勝手に名乗れる(番組評価 54/100へえ)

厚生労働省が「医療法」の中で決めているものです。内科・心療内科・精神科・神経科・呼吸器科・消化器科・循環器科・アレルギー科・リウマチ科・小児科・外科・整形外科・形成外科・美容外科・脳神経外科・呼吸器外科・心臓血管外科・小児外科・皮膚泌尿器科・性病科・肛門科・産婦人科・眼科・耳鼻咽喉科・気管食道科・リハビリテーション科・放射線科の27科目どれでも名乗ることができるのは「意思とはどの分野においても最低限の医療行為ができなければならない」という理念に基づいているためです。ただ、麻酔科は専門性の高い技術が必要で、一歩間違えば生命に直結する科目であるため、麻酔科を名乗るためには厚生労働省の「麻酔科標榜資格審査」に合格することが必要となります。だからといって27科目全部を名乗っている医者を見かけないのは、書けば書くほど怪しさが増すよね。「大丈夫か?」って、ま、それぞれの設備をそろえるのも大変でしょうけどね。

 

 

 

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給食2/3

2010/03/20 05:11

 


主なメニュー

 

時代によって食文化が変容すると共に給食のメニューもまた様変わりしている。近年では食の多様化を反映し、色々な国の食事が学校給食で採用されるようになった。冷凍食品や各種レトルト食品を利用することにより、手の込んだ献立が供されることが増えた。それらの料理を組み合わせて20日間、異なる国の料理の給食を供した例もある。

 

親の世代の給食内容を子供に話すことは、世代の違いや歴史を知る良い機会にもなる。

 

    * 飲み物

          o 牛乳 - 容器は紙パックと牛乳瓶が主流である。紙パックはいくつか種類がある。牛乳にはまれにミルメークと呼ばれる粉末または液体の調味品がつくこともある(効果はほぼ同じ)。いちごミルクコーヒー牛乳等はこれで作る学校もある。主食が米飯の日でも牛乳が出されるというのは、食べにくいという面で否定的な意見も多い。また、ミルメークを使わずにそのままコーヒー牛乳を出す学校もある。

          o 脱脂粉乳 - 当初の給食は脱脂粉乳とパンという質素なもので、当時を知る者の間では脱脂粉乳のまずさがしばしば話題になる。バケツに入れて配膳されていた。

          o お茶 - 茶どころでは牛乳に加えてお茶も付く(ただ、飲み物が牛乳と重複し、コップを持参しなければならないため、実際に飲んでいるのは牛乳嫌いの児童・生徒などに限られている場合もある)。近年では食の見直しの観点から、ご飯中心の和食のメニューの際には、牛乳の代わりに茶を出す学校もある。

          o オレンジジュース - みかんが多く穫れる地域では土曜日に100%みかんジュースが出されることがあった。しかし、学校5日制の影響で廃止されたケースが多い。他の地域でも乳酸菌飲料、コーヒー牛乳等が出される所もある。これらは普段からではなく、年に数回程度特別に出される場合が多い。

    * 主食

          o パン - 食パン、レーズンパン、クロワッサンなどのバリエーションも。ジャム、マーガリン、ピーナッツバター、チーズ等が付くことも。

                + コッペパン - コッペパンの名はフランスパンのクーペにその形が似ていることから、それが転じて付けられたとされる。

                + 揚げパン - コッペパンを油で揚げグラニュー糖をまぶしたもの。グラニュー糖に黄粉やシナモンを混ぜたものもある。甘いので好きな人が多いが、砂糖がまぶしてあるので手がべとついて食べづらい。

                + ケーキパン - クリームをサンドしたパン。

                + 胚芽パン、米粉パン - もちもちした歯ざわりである。

                + フォカッチャ - イタリア風パン。

                + ナン - インド風パン。主にカレーのときに付けられる。

                + チャパティ - インド風パン。

          o ご飯 - 現在では、条例で定める地方自治体も現れるなど学校給食の主流である。学校給食の主食は、当初はパンだけであったが、米余りの問題が指摘され、結果1976年から消費促進を狙って白米飯も出されるようになった。初期はパン箱のような保温コンテナに入ったご飯が配送されて来ていた。近年のアルミパックに入った米飯はパン工場のパン焼き機で炊かれたものである。その他に、炊き込み御飯、豆御飯、わかめ御飯、紫蘇御飯、赤飯、麦ご飯、焼きおにぎり、ピラフ、チャーハン、チキンライス、パエリア、ビビンバなどがある。地域によっては、アルファ化米を用いていた例もある。

          o 麺類

                + ソフト麺 - 正式名称はソフトスパゲッティ式麺。1960年代にパン主体の給食に麺の食文化が定着しないことを恐れた製麺業界が開発した。ビニル袋に入っている柔らかい麺をカレー、ミートソース等に入れ食べる。

                + 汁麺 - うどんやラーメンなど。スープや具と一緒になった状態で出され、各自の器に盛りつける。

                + 炒め麺 - 焼きそばやナポリタン、インディアンスパゲッティなど。やはり大きな器から盛りつける。あんかけやソースを後からかける場合もある。

    * 汁物

          o カレー - 国民食と呼ばれることもあるカレーは学校給食も普及に貢献した。辛さが苦手な人のことも配慮して、甘口、あるいは中辛程度のものが出され、具も一般的なものが入るが、季節によって具が変わる例も見られる。(夏なら夏野菜の茄子、南瓜など)

          o シチュー様々な種類があり、クリームシチューは勿論のこと、ビーフシチューやパンプキンポタージュなども存在する。

          o 豚汁

          o けんちん汁

          o ミネストロー - イタリア風トマト味の野菜スープ

          o イタリアンスープ - 卵と粉チーズを混ぜて、具の少なめな野菜スープに流し入れたもの。

    * おかず

          o 鯨の竜田揚げ - 1970年代までクジラ料理は給食をはじめ日本人にとって重要なたんぱく質源であった。捕鯨規制の結果給食からはほぼ姿を消したが、調査捕鯨により極僅かだが通しているため、年に12回程度出ることがある。

          o 他にもハンバーグなど色々なレパートリーがあるが、茎わかめ等子供受けしないものが出る事も。季節やクリスマスなどのイベントも考慮して献立が作られる。そのほか地元の郷土料理が出る地域もある。

          o また、おかずにはグリーンピースが入っている場合が多い。カレー、シチューなどにはもちろん、すき焼きやスパゲッティなど、通常はグリーンピースを入れることのないメニューの中にまで入っていることがある。

    * デザート

          o アイスクリーム

          o ケーキ - 特別な日(卒業式やクリスマス、終業式)に出されることがある。

          o 冷凍みかん - みかんをまるごと皮ごと凍らせたもの。

          o 果物 - リンゴ、梨、パイナップル、バナナ、キウイフルーツ、グレープフルーツ、夏みかん、はっさく、柿、スイカ、メロン

          o ゼリー

          o プリン

          o ヨーグルト

          o その他、5月には柏餅、3月にはひなあられなど季節のデザートが出されることもある。

 

その他、その地域独特のメニューをアレンジして使われた献立として、雑煮、ういろう、ほうとう、たこ焼き、けの汁、すいとんなどがある。また、日本国内に限らず外国の料理も、友好都市、姉妹都市のメニューを中心に多く見られる。

 

食器

 

学校給食以外ではあまり見かけない食器として先割れスプーンがある。スプーンの先端がフォークのように割れたこの食器は、スプーンとフォークの役割をこなせて、しかも両方準備する手間がはぶけるとして学校給食の現場に普及した。しかし、1980年代ころに「スープがこぼれるので食器に顔を持っていく犬食い(犬や猫などのペットや、家畜が、餌の入った容器に頭を突っ込んで食べるさまに酷似していて、無作法である)になる」「箸がつかえなくなる」「食べづらい」といった批判がなされ、徐々に姿を消した。今日学校給食では箸とスプーンが提供されている学校が多く,箸の訓練になるようにと、通称児童箸と呼ばれる、先端部に刻み目をいれることで食品を掴みやすく工夫された箸を使用する地域もある。

 

食器は、軽量であることや耐久性の面からアルミ(アルマイト)製が使用され、その後メラミン樹脂などの合成樹脂製が採用されていた。ところが、合成樹脂のポリカーボネートの原材料のビスフェノールが溶出され、内分泌攪乱化学物質(いわゆる環境ホルモン)の疑いがあると問題化し、その使用は中止された。そしてメラミン樹脂食器も良くないのではないかという保護者の漠然とした不安の声もあり、セラミックの技術改良で、軽量で割れにくいセラミック(強化磁器)製食器の利用が大幅に増加した。なお、合成樹脂製食器は一時、食器点数の軽減による管理の簡便化を目的として、ランチプレートと呼ばれる全ての料理を一枚のプレートにある各々の窪みによそう(現在でもお子様ランチにみられる また軍隊などにおける通常の食事もこれと同様である)様式が用いられた。しかし日本では椀等の食器を持って食べるという文化があり、また、前出の犬食い問題もあって中止された。また、学校によっては、あえて陶器などを使うところもある。

 

学校給食に関連した社会現象

学校給食外部委託

 

ここ最近、主に小学校において「義務教育」の言葉に託けて給食費を支払う経済的余裕のある家庭ですらその支払いを拒否、怠っている現状があるなど、憂うべき保護者の意識低下が問題視されている。その一方で、経費削減を目的として、学校給食の外部委託を行なう自治体が増えてきた。また、「外部委託により質の低下が起こるのではないか」と保護者の反発が強いところもあり、自治体と保護者などが協議会を作り、委託状況を監視している所もある。しかし一方で病院食でさえ外部委託されている現状や、給食職員(公務員)に対する不必要とすら思える厚遇(年間190日程度の勤務でありながら、年収800万円とも言われる。)から、外部委託を積極的に進めるべきだとの意見もある。

 

BSE発生による牛肉不使用運動

 

給食センターなどの集中調理法式に関連して、2000年に前後して社会問題となったBSE問題により、保護者側の根強い牛肉使用に対する抗議活動もあり、一つの学校が牛肉を使用した給食供給を中止したため、その学校の給食供給を受託した業者の請けおう地域全体で牛肉を使った料理を給食に出せないなどの事態を招いた。このため業者側では牛肉料理を他の肉で代用したアイデアメニューを採用するといった対応を行った。この問題は、第三セクター経営や公営の給食センターにおいても発生した。2003年には(豚肉よりも安価になった輸入牛肉を含む)牛肉が56%学校給食で用いられていないとする報告が農林水産省より提出された。

 

O157食中毒への対応

 

19967月、大阪府堺市で、学校給食を食べた児童ら約9500人がO157集団食中毒に感染し、3人が死亡した。これを受け当時の文部省、厚生省から新たに調理方法(大量調理マニュアル)が示された。施設が不十分でそれに対応できない学校給食施設では、生の野菜や果物を献立に使用することができなくなり、これらの施設で調理される学校給食の献立から、生野菜であるサラダや切った果物が姿を消した。現在、多くの学校の学校給食では、例えばトンカツのつけあわせに茹でたキャベツ(→温野菜)を使うなど、生野菜やサラダを使わない献立になっており、「食文化の破壊につながる」と嘆く教職員や保護者も少なくない。また従来では、児童らに特別な思い入れが出ることから持ち帰りを大目に見ていたゼリーやプリン等も、持ち帰りも原則として禁止している。児童・生徒側の防止策として学校によっては食べる前に手を消毒液に浸けて殺菌させているケースもある。

 

朝食抜き児童と給食

 

朝食を食べない児童生徒は、午前中に栄養不足となるため学業の能率が落ちる。このため、朝食抜きの児童生徒と給食の関係も問題となっている。近年では諸事情により朝食を取らずに登校し、給食まで何も食べない児童生徒も存在し、学校側は対応を迫られている。

 

たとえばヤマギシズムの村では、基本的信条により食事は一日二食であり、朝食は食べない。この村の学齢児童が地元学校に通っているが、彼らが朝食を取らないことにより学業に支障が出ている。ヤマギシズムの本拠地は三重県であるが、現地の学校側では午前中に砂糖水を支給するなど、応急的な対応を行なっている。

 

教育の中での給食

 

学校給食は学校生活の一部であり、給食を通じた学校行事を計画する学校も見られる。また、各学年あるいは各学級で、児童生徒の中で様々なルールや遊びが作られることもある。給食は個食や弁当とは違い、多くの児童生徒と同じ食事を共にするため、子供へ影響を与える傾向がある。給食を通じての子供社会の確立や、子供独自の遊びなどが挙げられる。かつては給食を食べ残すことは禁止されている場合があり、放課後まで残されて残さず食べることを強要されたり、地域によっては「三角食べ」と称する食べ方を強制される場合もあった(管理教育#管理教育の地域性を参照)が、これらの行為は逆に反教育的であるとして行われなくなってきている。場合によってはいじめにも繋がることもある。食生活の指導を一般教員が行うことには限界があるという例である。

 

いくつかの自治体では、学校給食を通して食育(食事を通した食に関する教育)が行われている。様々な食材をバランスよく摂取する指導、地元の素材や食器を使い、正しい食事作法を身につける指導などが実践されている。

 

給食の行事

 

校長先生と一緒に食べる

    校長先生がクラスや児童生徒の状況を観察する為、及び一緒に食事をすることで児童生徒とのコミュニケーションを図る為に実施される。児童生徒にとっては、この行事を大いに受け入れる者、嫌がる者と千差万別である。

保護者の給食

    保護者が児童生徒と一緒に給食を食べる、あるいは保護者のみで別の教室で食べる。特に前者の場合はクラスや児童・生徒の状況観察や児童・生徒とのコミュニケーションを図るねらいもあるが、給食を実際に食べて、味などの学校給食の実体を把握することが大きな目的である。普通、給食費とは別に料金(実費負担分)がかかる。

特別メニュー

    何らかの行事に関連させるなどして、特別な献立を用意することがある。例えば、地元や交流都市などの郷土料理、豪華な料理など、通常のメニューとは大きく変わったものが出される。

    行事との関連を図ったり、食を通した郷土理解や異文化理解などがねらいとして挙げられる。学校の実態にもよるが、このような例は増加している。

    例えば学校農園の収穫祭では、児童生徒が栽培した米や野菜などを給食の献立に使用する。また、郷土理解を図る場合には、地場産業を子供達に知って貰う趣旨で地元の食材を使う事が多い。地域によってはこのとき、イセエビやアワビなどの高級食材が出る場合もある。(例として下関の給食ではフグ雑炊や鯨の竜田揚げなどが出ている)また異文化交流の例としては、サッカーのワールドカップで出場国の民族料理などが出される。

リクエストメニュー

    児童生徒に献立の希望をアンケートなどで募り、それを提供するものである。多くはこれまでの給食の中で人気の高かったメニューが選ばれる。

学年、学級を超えた給食

    他の学年の生徒と一緒に食べる。縦割り班ごとに食べたり、個人が他のクラスに混ざって食べたりする事がある。

リザーブ給食(バイキング給食)

    あらかじめ数種類の食品を示されたなかから選ぶことができるもの。バイキング形式と考えてもよい。主食や副菜、飲み物、デザートを選べることが多い。好きなものが選べることから人気が高いが、当日に給食当番(配膳係)にあたると配布がやや面倒になる。

 

給食での遊び

 

以下、遊びを推奨するものではないことを、あらかじめ断っておく。

 

早食い競争

    2人以上で行われ、誰が給食全てを早く食べきれるかを競う。食べきって終わりではなく、誰が早くグラウンドへ出られるかなど昼休みへと繋がることが多い。かつて、ある中学校で給食に出たパンを早食い競争したことが原因で窒息死する悲惨な事故が発生した。その生徒は早食い競技のテレビ番組を見ていたことがありそれを真似たものとされている。この事件以降、テレビ番組から早食い競技が消えた。

牛乳早飲み競争

    2人以上で行われ、誰が早く飲みきれるかを競う。以下の「牛乳を飲んでいる人を笑わせる」遊びと同時に行われることが多い。

牛乳を飲んでいる人を笑わせる

    2人以上で行われ、牛乳を吹いた人間が負けという競争形式と、牛乳を飲んでいる人間を一方的に吹かせることを目的としたものがある。後者の場合、いじめにより行われることもある。

牛乳パックを破裂させる

    飲み終えて空になった牛乳パックに、息を吹き込み大きく膨らませ、足で勢いよく踏み、破裂させる遊び。

瓶牛乳の蓋でのメンコ

    主に乾かしたものが使用される。牛乳瓶から蓋を外すときの蓋のめくれ具合によって強さが大きく変わる。

    勝った者が負けた者から蓋を獲得できるが、これがギャンブルに繋がるとされて禁止している学校がある。

じゃんけん

    欠席者が出るなどして給食の一部が余ってしまったときに行われる。デザートやおかずなど人気の給食は希望者が多いためにじゃんけんによって誰が余った分を食べるか決定する。傾向として男子はみんな盛り上がってじゃんけんに参加するが女子の参加率は低い。

 

放送

 

給食時間は、学校により異なるが放送が行われることが多い。校内の放送室を利用したもので、全校に向け放送される。今日の給食の紹介、及び児童生徒による音楽を流したり話をすることから成る。各教室のテレビを利用してビデオプログラムを上映することもある。

 

学校給食の問題点

 

    * 昔の学校給食の問題点は、教師が生徒を放課後まで居残らせ、残さず食べることを強要されるなどだが、現在ではそういうことは減ってきたため、他人の給食のおかずやデザートを取ったり、自分の嫌いなものを無理矢理他人に食べさせることなどが問題となる。特に肉やデザートは人気があるために他人の物を勝手に取ったりすることが起こりやすいが、果物や野菜などは嫌いな児童が多いため、無理矢理他人に食べさせることが起こりやすい。いわゆる給食でのいじめは、現在の学校給食の問題点のひとつである。

    * 生徒(児童)の中には、クラスの人間同士顔を合わせて食事をする事が出来ない(困難な)者も存在することがある(会食不全症候群)。為に、近年では別室(保健室等)に移動させて食べさせる等の配慮をしている学校もある。

    * 中学校において、3人に1人が美味しくないと思っている、というアンケート結果がある。また、食べ残しによる残飯が問題になっている(アンケートは東京都小平市内8校を対象)[11]

    * 思想上、宗教上食べられないものが出ることがある。

 

 

つづく

 

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給食1/3

2010/03/20 05:05

 

 

579

0320

 

誕生花 アンズ 花言葉 疑惑。乙女のはにかみ

 

誕生石 ドラゴン・パール 石言葉 生命の尊さ

 

給食1/3

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

給食(きゅうしょく)とは食事を供給すること。また、そこで供される食事そのもののこと。

概論

 

一般には、学校等(小学校、中学校、保育所、児童養護施設など)、工場あるいは病院、寄宿舎、軍隊[1]などで多人数のために作られた食事を供すること、あるいはその食事そのものである。 日本では、学校で提供されるそれを経験した人の割合が多いため、単に「給食」というと学校給食(がっこうきゅうしょく)をイメージする人が多い。だが実際はこの語は前述のように、もっと広範囲に用いられており、さらに、被災地の住民に支給される炊き出しなどの食事も給食と呼ばれる場合がある。

 

給食は一般に、調理作業の能率化、調理場施設における衛生管理や栄養管理が行われている。

 

語源

 

「給食」という言葉の語源は、古代日本の律令制における高等教育・官人育成を目的とした大学寮の設置に遡る。大学寮の学生は直曹と呼ばれる学舎兼学生寮に住むこととなっており、大学寮から学生に対して給付した食事を給食と称した。[2]

 

世界における学校給食

 

英語ではSchool dinnerあるいはschool lunchなどと言う。ドイツ語ではSchulspeisung

 

ヨーロッパにおける学校給食

 

日本の学校給食ではない習慣だが、ヨーロッパの初等中等学校の多くでは、昼食は家に帰ってとるというケースがある。大学では、食堂で食べることが一般的で、ここには給食のような定食メニューがある。そのメニューで、金曜日には通常の場合、肉料理はなく、多くの人は魚料理を食べる。キリスト教の風習からくるものである。

 

アメリカ合衆国における給食

 

アメリカ合衆国では、1930年代より余剰作物の有効活用として学校給食の援助がスタート。年々参加校を増やし、1946年には学校給食法が制定され、公立私立問わず高等学校までの全ての学校での給食がスタートした。アメリカ学校給食法の目的には、子供たちの福利厚生を目的としたものとしている一方、農産物の消費拡大の一文が添えられているなど農業国独特の側面も垣間見せる。

 

給食費は有料であるが、給食を全部または一部の納入を拒否して弁当を持参することもできる。保護者が低所得者である場合には、給食費は免除される。

 

昼食場所は、都市部を中心に下校や外食を認めている学校もあるが、多くは校内のランチルームで行われる。ランチルームはビュフェ形式を採る学校が多く、宗教や信条的な理由から生徒が自由に複数のメニューから主食、副食を選ぶことができるよう配慮されている。外食産業の学校給食への進出も盛んで、宅配ピザのチェーン店が学校にピザを供給している例も見られる。

 

献立は、近年まで必須カロリーをいかに補給させるかが課題とされてきたが、2000年代頃から生徒の肥満傾向が著しくなってきたこともあり、栄養のバランスなども考慮されるようになった。

 

中国

 

中国における大学の食堂は、政府から補助金も受け取っており、市場価格よりも安く提供されている[3]

 

2007年の物価高騰による食材コストの増加が、学校給食へも影響を与えている。

 

    * フリーライドの防止と、提供しても利益が出ないことから、部外者の利用制限[4](食費を浮かすために、安い大学の食堂へ他大学の学生が食べに行ったり[5]、卒業生が食堂を利用していた[3])を行う動きがある。

    * コスト削減のために、農家との食材の直接契約[3]や、中には病原菌の多い部位の肉や、腐った野菜など、安く危険な食材を使用する動きがある[6]

 

発展途上国における学校給食

 

発展途上国においては、子どもが学校に行くことが困難な場合も多い。日々の食事が満足でない状況で、お弁当をもたせて学校に行かせるようなことが難しいからである。そのため、WFP国連世界食糧計画)では、学校での給食事業を行ない、子どもの栄養不良を改善し、さらには就学率を向上させている。

 

 

日本における学校給食

 

以下では特に断り書きがない限り、日本での事例について述べる。

 

それぞれの自治体の方針によってやや事情は異なるが、基本的に下は幼稚園や保育園から小学校を経て、中学校までが一般的で、ほかに定時制(主に夜間)高等学校で給食が提供されている。近年、一部全日制高等学校においても学校給食が開始されはじめている。

 

小学校教育をイメージさせるキーワードとして学校給食は欠かせない要素であり、中学校でも給食が提供されている地域は増えている。学校給食にノスタルジーを感じる大人向けに、給食と同じようなメニューを提供するレストランも存在する。給食にかかる行政コストが問題になったり、「親が愛情を込めてつくった弁当を食べることで親子の会話ときずなも生まれる」として、学校給食廃止が議論になっていた地域も多かったが、近年食育の意識や格差是正の観点、栄養の偏りの是正、共働きの増加など給食維持の声も強いため廃止論を言う者は少なくなっている。

 

一般的な学校給食は、朝からの4時間程度の授業のあと、正午過ぎ〜午後1時ごろに配膳される。ただし、定時制学校では時間帯や量が異なり、例えば朝食を抜いてくる事が判っている児童に朝に軽食ないし糖分を含んだ飲み物を提供するところ(後述)や、深夜授業に備え夜食を提供する学習塾など、様々な事情に即した給食の形態が見られる。

 

かつては偏食や野菜嫌いなどを矯正するという観点から、残す事を禁止する教師が圧倒的に多かったが、食物アレルギーに対する配慮などから、残すことを禁止する風潮はなくなってきたといってよい。特に症状の重い(致命的な拒否反応が出る)児童は、学校側との交渉の上、給食をとらずに弁当を持参する場合もある。また、食べる前に食べられる量まで減らすように指導する人も増えてきている。

 

余った分は欲しい人に対して開放するほか、デザートや人気メニューについては教師の指導の下、ジャンケンや特配などの方法で争いが無いように分配されるなど、「集団内のルールを作りながら問題を解決する」といった基本的な社会性の教材的な扱われ方も見られる。1990年代よりは食育という「食事の教育的側面」が注目されるようになり、郷土料理の取り込みや地域産品の活用も見られるが、その一方で余剰地域産品の重要な消費先ともなっており、地域農林水産業の影響も見て取れる。

 

    牛乳では2004年度の給食消費量は385,543キロリットル(前年度比-2.7%)となっており、これは加工用乳含めた全牛乳生産量の9.8%であるが、この学校給食消費量の微減傾向は2005年に前後する牛乳供給過剰問題の一因にも挙げられている(畜産情報ネットワーク推進協議会調べ)。

 

従来、ご飯が給食に出されることはなかった。1976年から給食にご飯が登場し、食育とあいまってご飯を中心とした日本型食生活の促進が期待されるようになっている[7]。国会でも、まだまだご飯食を増やしたいと意向が示された[8]

 

学校給食は、学校の地位を高めるとして、ホテルに給食サービスを委託する動きもある(京都の同志社小学校と立命館小学校がホテルに給食を委託した[9]

 

提供の形態

 

給食方式として、給食センター方式(複数の学校向けの給食を一か所で調理して、トラックで各学校に配送する。)と個別(学校別)給食方式(各学校の給食室で調理する。)がある。また、民間に委託している場合もある。

 

配膳は児童生徒による交代制によりおこなわれ、これを給食当番という。給食当番の主な仕事として、以下があげられる。なお、給食の調理及び食器類の洗浄は調理場にて一括して行われ、給食当番は一切関与しない。

 

    * 給食室(センター方式の場合は配膳室)から給食を運ぶ

    * クラスの生徒へ配膳する(ウェットティッシュが配られる場合もある。各自でやったり班の代表がやる場合もある。)

    * 食べ始め・食べ終わりの号令(日直や学級委員等が行う場合もある)

    * 食べ終わった食器類を給食室(センター方式の場合は配膳室)に返す

 

当番の期間は学校や学級担任の考え方によって様々であるが、多くは一週間程度で、当番は数人で構成している(あらかじめ決められた班によるローテーション制が多い)。エプロン(白の他、色々な色のものがある)、三角巾(または帽子)、マスクなどを着用し、マスク(場合によっては三角巾なども)を除いた着用具は洗濯をした後、次の当番へ渡す。なお、当番に教師は含まれない。マスクや洗濯のために持ち帰った着用具は忘れ物となりやすいため、「着用具類の忘れ物が一定以上あると、罰則としてもう一週間当番をしなければならない」など、忘れ物防止のために学級によって様々なルールが作られている。

 

白衣・帽子・マスクは給食当番の人のみ着用し配膳の仕事が終わるとそれらを脱ぎ給食を食べるのが一般的だが、学校のきまりやクラス担任の指導方針の違いにより以下のようなパターンがある。

 

    * 当番の人だけ白衣マスク帽子を着用、配膳後当番はマスクのみはずし白衣を着たまま食べる

    * 当番以外の人はマスクのみ着用、「いただきます」まで自分の席で静かに待つ

    * 当番も当番以外の人も全員給食の時間になると着替える

 

一部の学校では給食を食べる為に作られた専用の教室(給食ルーム・給食室等と呼ばれる事が多い 要は食堂)を備えており、給食の時間になると全校もしくは一部の児童・生徒がそこに集まり給食を食べるシステムとなっている。

 

給食は、長らく施設の一部として管理運営がなされてきたが、非効率的であるとして管理運営の一部を給食産業へ委託するケースも見られるようになってきた。

 

学校給食の法的根拠

 

    * 学校給食……小学校、中学校、中等教育学校前期課程、盲学校・聾学校・養護学校の小学部・中学部

    * 盲学校、聾学校及び養護学校の幼稚部及び高等部における学校給食に関する法律

    * 夜間課程を置く高等学校における学校給食に関する法律

 

歴史

 

    * 明治22(1889)に山形県鶴岡町(現鶴岡市)の私立忠愛小学校においておにぎり・焼き魚・漬け物といった昼食を貧困児童に与えたのが日本で初めての給食とされている(ちなみに鶴岡市では12月になると給食記念日と言う事で当時の給食を再現されたものを出される)。

    * 昭和19年、6大都市の小学生児童約200万人に対し、米・みそ等を特別配給して学校給食を実施した。

    * 昭和21(1946)1224日戦時中中断されていた学校給食が東京、神奈川、千葉で試験的に再開される。

    * 昭和22(1947)1月主要都市の約300万人の児童にララ物資を利用した学校給食が開始される。

    * 昭和24(1949)、ユニセフ(国連児童基金)から脱脂粉乳が贈られユニセフ給食がおこなわれた。

    * 昭和25(1950)アメリカ合衆国から小麦粉が贈られ都市で完全給食がおこなわれた。

    * 昭和29(1954)、保護者においても好評で存続が望まれ、学校給食は教育の一環として学校給食法施行。

    * 昭和31年、「学校給食法」が一部改正され、中学校にも適用されるようになった。「夜間課程を置く高等学校における学校給食に関する法律」が公布された。

 

昔は給食ならではのメニューが多かったが、世代や地域によって思い出に相当の違いが見られる。戦後、アメリカで大量に残っていた小麦粉を日本に安く売り、それをパンにして提供し日本人の食文化に多大な影響を与えた。そして、高度経済成長をへて日本が豊かになるにつれてその内容は大きな変遷をとげてきた。昭和33(1958)に脱脂粉乳が牛乳へ、昭和51(1976)米飯給食が開始、後にパンは週1回程度になりご飯が主食となり(日本人の食事の洋食化に伴い、米の生産量の増大と反比例して消費量が減り、余った古米、古古米の処理のため)、パンをクロワッサンに、汁物をトムヤムクンになど、従来あまりなじみのなかったメニューも供され、近年では普段の食事と変わりないかそれを上回るメニューが多く登場している。食物アレルギーを持つ児童生徒に対応した特別食を作る場合もある。

 

関連資格

 

現在、給食における栄養の指導に関する、日本での国家資格としては、栄養士および管理栄養士がある。[10]

 

つづく

 

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北海道庁爆破事件

2010/03/19 05:14

 

 

578

0319

 

誕生花 クレピス 花言葉 目ざとい

 

誕生石 バイカラークォーツ 石言葉 Moved to the Spring

 

北海道庁爆破事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

北海道庁爆破事件(ほっかいどうちょうばくはじけん)とは、1976年に北海道庁に仕掛けられた爆弾が爆発し、2名の死者を出した事件。

 

概要

 

197632日の午前92分頃、道庁本庁舎(札幌市中央区)1階ロビー西側エレベーター付近で爆発が起こり、出勤途中の職員2名が死亡し、80人余りの重軽傷者をだし、天井が落下するなどの被害を出した。その後、爆発したのは時限式消火器爆弾と判明、また事件当日、地下鉄大通駅のコインロッカーから「東アジア反日武装戦線」を名乗る犯行声明文が見つかった。道庁を標的にしたのは、道庁がアイヌ侵略の拠点であるとの理由からだということだった。

 

「反日闘争」を進めている人物を中心に捜査が進められ、同年82日、容疑者Oが逮捕された。その後の家宅捜索で「反日戦線」との交友関係と自室内にあった工具類が発見されている。

 

この事件は直接証拠が見つからず、Oは捜査に対して黙秘を貫き、裁判では無罪を主張した。ただし、Oは犯人の残した声明文に含まれる政治思想については支持するという特異な状況であった。結局、事件当日の目撃証言や押収品などといった状況証拠から19833月、第1審の札幌地裁は死刑判決を言い渡した。その後、札幌高裁への控訴、最高裁への上告は棄却され、死刑が確定した。20027月、札幌地裁に再審を請求。弁護側は逮捕の決め手となった当時の北海道警の鑑定が虚偽だったと主張したが2007319日に棄却された。弁護側は即時抗告したが2008528日に棄却された。弁護側は最高裁特別抗告を申請する意向である。

 

参考文献

 

    * 『やっていない俺を目撃できるか!』三一書房、1981年。

 

外部リンク

 

    * Web東奥 北海道庁爆破事件

    * 毎日新聞 北海道庁爆破事件

 

http://www.toonippo.co.jp/news_hyakka/hyakka2004/0929_1.html

  北海道庁爆破事件

 

 197632日午前92分、札幌市の北海道庁1階エレベーター前付近で、消火器爆弾が爆発、道庁職員2人が死亡、95人が重軽傷を負った。この日は北海道旧土人保護法が公布された記念日で、地下鉄大通駅のコインロッカーから「東アジア反日武装戦線」の名で「道庁に群がる占領者はアイヌの土地を強奪してきた」などとする犯行声明が見つかった。757月には北海道警本部でも爆破事件があった。

 

http://mainichi.jp/word/archive/news/2007/03/20070319dde041040028000c.html

北海道庁爆破事件

 

 ◇北海道庁爆破事件

 

 76年3月2日午前9時ごろ、札幌市中央区の道庁本庁舎1階エレベーターホールで時限式消火器爆弾が爆発し、道職員2人が死亡、95人が重軽傷を負った。「東アジア反日武装戦線」を名乗る犯行声明文が見つかり、左翼活動家だった大森死刑囚が同年9月に殺人容疑などで逮捕、起訴された。

 

 札幌地裁で死刑判決(83年3月)、札幌高裁の控訴棄却(88年1月)を経て、最高裁が94年7月、上告を棄却し、同9月に死刑が確定した。

 

毎日新聞 2007319日 東京夕刊

 

 

No.578 「鼻毛」という言葉には「女に甘い」という意味もある(番組評価 60/100へえ)

広辞苑にも「女に甘いこと。また、その者」と記載されています。江戸時代に男が女に夢中になり、鼻毛の手入れもせずに伸びっぱなしになってしまうことから、このような意味で鼻毛という言葉が使われるようになりました。おいおい、女に夢中になったら鼻毛の手入れはしないと

 

 

 

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白鳥事件

2010/03/18 05:09

 

 

577

0318

 

誕生花 ポプラ 花言葉 悲嘆。哀惜。勇気

 

誕生石 エマイユ(七宝焼き) 石言葉 多面性

 

白鳥事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

最高裁判所判例

事件名: 再審請求棄却決定に対する異議申立棄却決定に対する特別抗告事件

事件番号:昭和46年(し)第67

1975(昭和50)520

判例集: 刑集295177

 

裁判要旨

 

刑訴法4356号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」とは、確定判決における事実認定につき合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠をいうものと解すべきであるが、右の明らかな証拠であるかどうかは、もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、はたしてその確定判決においてなされたような事実認定に到達したであろうかどうかという観点から、当の証拠と他の全証拠と総合的に評価して判断すべきであり、この判断に際しても、再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りるという意味において、「疑わしいときは被告人の利益に」という刑事裁判における鉄則が適用される。

第一小法廷

裁判長:岸上康夫

陪席裁判官:藤林益三 下田武三 岸盛一 団藤重光

意見

多数意見:全員一致

意見:なし

反対意見:なし

参照法条

刑訴法4356

 

白鳥事件(しらとりじけん)は、1952121日に発生した殺人事件。 一部で冤罪事件である可能性が指摘されているが、再審請求は棄却されている。

概要

 

1952121日午後730分頃、北海道札幌市南6条西16丁目の路上で、札幌市警察の白鳥一雄警部が自転車で帰宅途中、併走した自転車に乗っていた犯人に射殺された。犯人は逃走した。

 

白鳥警部は同警察警備課長として、当時半ば非合法活動を行っていた日本共産党対策に従事していたことから、当局は共産党関係者を中心に捜査。事実、事件発生の2日後に党北海道地方委員会が「党との関係は何とも言えない。この事件は愛国者の英雄的行為」と関与を匂わせる旨の声明を発している上に、党員が市内で「見よ、天誅遂に下る!」のビラを配っていたことから共産党関係者に疑いの目が向けられていた。ただし、事件直後には党北海道地方委員の村上由が「党と白鳥事件は無関係」と関与を否定する声明を発しているし、また某信用金庫の不正をめぐって白鳥が関与していたことから、その信用金庫の経営陣が殺し屋を差し向けたとの噂も当初からささやかれていた。

 

事件発生から4ヶ月後に党員の通報により、村上国治党札幌地区委員らが白鳥殺害に関与しているとの情報を得、村上らを逮捕。共犯として逮捕されたTが「13日〜14日頃に村上ら7人が集まり、白鳥警部殺害の謀議を為した」と供述した。しかし、村上らを逮捕した後も犯行に使われたピストルは発見できず、僅かに事件発生の2年前に幌見峠で射撃訓練をしたピストルの弾のみが唯一の物証として裁判に提出された。

 

裁判

 

検察側は村上を殺人罪(共謀共同正犯)で、共犯2人を殺人罪の幇助犯として起訴し、「村上らは武装蜂起の訓練のため幌見峠で射撃訓練をした。そして、彼らの活動の邪魔になる白鳥警部を射殺した」と主張した。第1審の札幌地裁は共同謀議を認定、村上に無期懲役、共犯1人に懲役5年・執行猶予5年の判決を下した(途中から分離公判となっていた共犯T(=共同謀議を自供)には懲役3年・執行猶予3年を判決、そのまま判決は確定)。控訴審の札幌高裁では村上は懲役20年に減刑、共犯1人に関しては控訴を棄却。1963年には最高裁判所において上告も棄却され、判決が確定した。

 

しかし、唯一の物証であるピストルの弾は2年前に発射された銃弾としては腐食が殆ど無く、しかも白鳥警部の遺体から発見された銃弾と旋条痕が一致したという鑑定結果も、実際は米軍が行ったものであったという証言が上告棄却後に得られたことから、捏造されたものである可能性が浮上。そのため村上は1965年に再審請求を行い、最高裁判所特別抗告まで行ったが、1975年に請求は棄却された。

 

白鳥決定

 

再審請求は棄却されたが、このとき最高裁判所は「再審制度においても『疑わしいときは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用される」という判断を下した(通称「白鳥決定」)。それまでの再審裁判では、完全に証拠を覆すだけの完全な証言や証拠を求めることが多かったが、これを改め、裁判時の証拠・証言に対してある程度の合理的疑いが存在する場合も再審の対象としうるすることで以下のような多くの事件(結果として冤罪と認められた)に救済の門戸を広げる結果となった。

 

    * 弘前大教授夫人殺し事件・米谷事件・滝事件・財田川事件・免田事件など。

    * 再審・冤罪事件においては必ずといっていいほどこの白鳥決定が引き合いに出されるが、白鳥事件自体の再審請求は最終的に棄却されている。

 

関連項目

 

    * 冤罪

    * 再審

    * 公安警察

    * 日本共産党

    * 札幌市警察

    * 松本清張 - 著作「日本の黒い霧」でこの事件を取り上げた。

 

外部リンク

 

    * 白鳥事件(事件史探求)

    * 白鳥事件(冤罪事件関係データベース)

    * 死刑廃止と死刑存置の考察■冤罪■再審制度と白鳥決定

 

 

http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage33.htm

−経緯−

昭和27年1月21日午後7時30分頃、札幌市南六条西16丁目の路上で白鳥一雄警部(当時38歳)が自転車に乗り帰宅途中、後ろから自転車に乗って来た男に追い抜きざまに拳銃で撃たれた。白鳥警部は即死。発砲した男は、そのまま自転車に乗って逃走した。

 

通行人はまばらであったが、数人の目撃者が居た。その一人、北海道庁の職員は《歳は30歳前後でがっしりした体格の男がもう一台(白鳥警部)の自転車の男に話し掛けている様子だった。その直後「パーン」という乾いた音がして話し掛けられていた男が自転車とともに横倒しになった》と証言している。

 

事件発生の翌22日、日共北海道地方委員会の村上由(ゆかり)が「党と白鳥事件は無関係」との声明をだす。が、その翌日「党との関係は何とも言えない。この事件は愛国者の英雄的行為」である旨の声明を行う。いわば前日の声明を打ち消し犯行は日共の可能性を匂わせた。なぜ前日の声明を否定したのか今でも明確になっていない。また23日には日共党員らが「見よ、天誅遂に下る」というビラを札幌市内で配っている。

そこで警察も世論も日共の犯行ではないかと疑いの目を向ける。

 

当時の日共は武装蜂起によって革命を達成させる思想が支配していた。特に全国の日共組織の中で北海道の日共は中心的役割を担っていた。が、その組織・活動内容は警察でも殆ど掴んでいなかった。この状況の中、左翼の取り締まり担当であった白鳥警部は次々と日共党員を検挙した。よって白鳥警部は日共連党員から相当恨まれていた。

 

事件から4ヵ月後、捜査本部は日共の成田という青年から重大な情報を入手する。成田の提供した情報は北海道の日共組織と党員名など警察が喉から手が出るほどの情報であった。この情報によると北海道日共の中心人物は村上国治(札幌地区委員)、佐藤直道(統括委員)らで、天誅ビラを配布したのは村上が発案した。また白鳥殺害は「党の決定」であったなどと述べている。そこで警察は村上・佐藤等を逮捕したが、村上は取り調べで《事件との関係は一切無いと否認する》。

 

−謎−

「白鳥殺害=日共の犯行」に関しては物的証拠が殆ど無い。村上らを逮捕した後も犯行に使われたピストルすら出てこなかった。警察が主張したのは「村上らは武装蜂起の訓練のため幌見峠で射撃訓練をした。そして、彼らの活動の邪魔になる白鳥警部を射殺した」という一点だった。実際に2年前に幌見峠で訓練のため雪に向かって撃ったとされた弾丸は警察の現場検証で簡単に出てきた。しかも、その弾丸はニッケルメッキの光沢がありとても2年前に射撃した弾丸とは思えなかった。が、警察はこれが証拠であると法廷に提出している。

昭和38年10月、最高裁で村上の懲役20年が確定した。

 

白鳥警部は、札幌の裏社会の権力者として様々な逸話があった。白鳥殺しは○○信用金庫の理事長が、不正を知られたため殺し屋を雇って殺したのだという噂も流れた。本当に犯人は村上だったのか真相は闇の中にある。

 

 

No.577 配達されたハガキには見えないバーコードがついている(番組評価 91/100へえ)

この見えないバーコードはブラックライトを当てると浮かび上がります。バーコードには届け先の番地情報が記されていて、配達員が配るルート順に自動的に並び替えられます。郵便物はそれぞれの集配局に集められて消印が押され、郵便番号や住所を読み取る機械に通されて各地区に振り分けられますが、ここでバーコードがつけられます。配達先の郵便局に送られてバーコードが読み取られ、ルート順に並び替えられます。このシステムは平成10年(1998年)2月に郵便番号が5桁から7桁に変更されたときから実施されているもので、日本オリジナルのシステムです。ただ、主要都市以外の集配局にはバーコードをつける機械が導入されていないところもあるため、配達された全てのハガキにバーコードがついているわけではありません。このバーコードを簡単に見るためには、ブラックライトがついているクラブに持って行きましょう。もしくは、ブラックライト搭載の車とか。うーん、ボクの生活にはブラックライトはないから、どこで確認したらいいのか

 

 

 

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南方熊楠2/2

2010/03/17 05:23

 


人物像

 

    * 幼少時代の父は鍋屋を営み、鍋や釜を包むのに反古紙を山と積んでいた。熊楠は、反古に書かれた絵や文字をむさぼり読んで成長した。

    * とにかく奇行が多かったことで知られる。多汗症から、薄着あるいは裸で過ごすことが多かった。田辺の山中で採集を行った際、ふんどしだけの裸で山を駆け下り、農村の娘たちを驚かせたとか、そのために「てんぎゃん」と呼ばれたという話ものこる。

    * 渡米の前に「僕もこれから勉強をつんで、洋行すましたそのあとは、降るアメリカをあとに見て、晴るる日の本立ち帰り、一大事業をなしたのち、天下の男といわれたい」という決意の言葉をのこしている。

    * キューバ採集旅行中に資金の尽きた熊楠は、ハイチ、ベネズエラ、ジャマイカなど2か月あまりサーカス団の一員となって生活したことがある。

    * ロンドン留学から帰国後も猫を飼い始める。名前は一貫してチョボ六。

    * のちに妻となる松枝に会う口実として、何度も汚い猫を連れてきては猫の身体を松枝に洗ってもらった。

    * 熊楠は、柳田國男にジョージ・ゴム(George Laurence Gomme)編『The handbook of folklore(民俗学便覧)』を貸している。これは、日本の民俗学の体系化に大きな影響を与えることとなった。

    * 柳田國男が田辺に来て熊楠と会おうとした際、熊楠は緊張のあまり酒を痛飲し、泥酔状態で面会したという。

    * ホメロスの『オデュッセイア』が中世日本にも伝わり、幸若などにもなっている説話『百合若大臣』に翻案されたという説を唱えた。

    * 生涯定職に就かず、ろくに収入がなかった。研究所設立のため、資金集めをしていた時、遺産相続の問題で弟・常楠と衝突し、絶縁状態になった。

    * 自在にヘドを吐くことができる体質であった。小学校時代も喧嘩をすると“パッ”と吐いたという[2]

    * 元田辺署の署長をした小川周吉が巡査部長をしていた頃、南方をいろいろ調べたことがあった。その後、南方と一緒に飲んだが、他へ転任して20年ほどたって今度は署長として田辺へ着任した時、挨拶に行ったところ南方は小川の名前を覚えていたどころか、飲んだ席にいた芸者の名前や原籍まで覚えていて話したという[3]

    * 田辺在住の知人野口利太郎は南方と会話した際、“某氏”の話が出た。南方は即座に、「ああ、あれは富里の平瀬の出身で、先祖の先祖にはこんなことがあり、こんな事をしていた」ということを話した。野口は「他処の系図や履歴などを知っていたのは全く不思議だった」と述べている[4]

    * 蔵書家ではあったが、不要な本はたとえ贈呈されたものであっても返却したという。また、「学問は活物(いきもの)で書籍は糟粕だ」[5]とのことばも残している。ただし、こんにち残された蔵書のほとんどはシミ一つなく色褪せない状態で保存されているという[6]

    * 1929年に田辺湾の神島で昭和天皇に講義したとき、熊楠は標本をキャラメルの箱に入れて持っていったという(平民が直接皇族にものを手渡すことは、下手をすれば不敬罪。しかも中身は、粘菌。さらに、皇族にものを贈る際には桐の箱でなければならないとされている)。

 

著作

 

    * 『十二支考〈上〉』岩波書店<岩波文庫>、ISBN 4003313917

    * 『十二支考〈下〉』岩波書店<岩波文庫> 、ISBN 4003313925

    * 中沢新一編『南方熊楠コレクション 〈第1巻〉南方マンダラ』河出書房新社 <河出文庫>、ISBN 4309472060

    * 松居竜五、中西須美、田村義也、飯倉照平訳『南方熊楠英文論考「ネイチャー」誌篇』集英社、 ISBN 4087813320

    * ワタリウム美術館編『南方熊楠菌類図譜』新潮社、2007年、ISBN 978-4-10-305551-8

 

評価

 

    * 生物学者としての昭和天皇が1948年(昭和23年)ごろ渋沢敬三(当時常民文化研究所所長)に熊楠の標本調査を依頼したことを機縁として、渋沢により「南方ソサエティ」が設立された。

 

    * 1962年(昭和37年)5月、白浜町を行幸した昭和天皇は御宿所の屋上から神島を眺めて歌を詠んでいる。これは、昭和天皇が民間人を詠んだ最初の歌であった。

 

雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ

 

    * 1980年代ころより南方再評価の動きが生じ、地元和歌山県田辺市に南方熊楠顕彰会が設立され、生前資料の保存と研究、啓発行事などを行っている。

 

    * 出生地和歌山市では、橋丁の生誕の地に南方熊楠の胸像を建てている。

 

家族

 

    * 父:南方弥右衛門 - 世界一統創業者[7]

    * 母:すみ

    * 兄:藤吉

    * 姉:垣内くま

    * 弟:常楠 - 世界一統第2代社長

    * 妹:藤枝

    * 弟:西村楠次郎

    * 妻:松枝

    * 長男:熊弥

    * 長女:文枝

 

子孫

 

熊楠の邸宅は熊楠死後、娘の文枝が管理していたが、2000年に文枝が死去し、その後は田辺市へ寄贈された後、整備されて南方熊楠顕彰館となった。粘菌標本は国立科学博物館の筑波実験植物園に収められている。

 

また、長男の熊弥、長女の文枝ともに子がいなかったため、熊楠直系の子孫は途絶えた。

 

南方熊楠を題材とした作品

 

小説

 

    * 江戸川乱歩 「緑衣の鬼」 - 松村喜雄『乱歩おじさん 江戸川乱歩論』(晶文社、1992年)p.157によると、この作品に登場する在野の粘菌学者夏目菊太郎は熊楠をモデルにしている。

    * 神坂次郎『縛られた巨人』

    * 津本陽『巨人伝』

    * 中沢新一『森のバロック』

    * 千秋寺亰介(あすかあきお)「怨霊記」シリーズ

 

漫画

 

    * 岸大武郎『てんぎゃん』

    * 水木しげる『猫楠』

    * 内田春菊『「クマグスのミナカテラ

 

南方熊楠が脇役として登場

 

    * 江川達也『日露戦争物語』

    * 高田祐三『九十九眠るしずめ』

 

映画

 

    * 山本政志監督『熊楠・KUMAGUSU』(主演渡辺哲、町田町蔵、出演泉谷しげる・室井滋ほか、19916月に撮影開始、10月完成予定であったが資金難で中止。200710月、弁慶映画祭においてパイロット版を上映)

    * 神坂次郎企画・製作・脚本『南方熊楠・その人と生涯』(教育映画)

 

脚注

 

   1. ^ 速成中学校(旧制の高等小学校と同じ)で希望者のみ入学した。

   2. ^ 南方熊楠 人と思想』 290

   3. ^ 南方熊楠 人と思想』 280 - 281

   4. ^ 南方熊楠 人と思想』 281

   5. ^ 「平家蟹の話」

   6. ^ 紀田(1994

   7. ^ 株式会社 世界一統 【熊楠】

 

関連項目

 

    * 南方熊楠記念館

    * 南方熊楠顕彰館

    * 博物学

    * 菌類学

    * 民俗学

    * 粘菌

    * 江戸川乱歩

    * 柳田國男

    * 熊野古道

    * 鎮守の森

 

参考文献

 

    * 飯倉照平『南方熊楠 人と思想』平凡社、1974年 

    * 神坂次郎『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』新潮社<新潮文庫>、1991年、ISBN 4-10-120912-X

    * 鶴見和子『南方熊楠:地球志向の比較学』講談社<講談社学術文庫>、1981年、ISBN 4061585282

    * 鶴見和子『南方熊楠・萃点の思想—未来のパラダイム転換に向けて』藤原書店、2001年、ISBN 4894342316

    * 松居竜五『南方熊楠:一切智の夢』朝日新聞社<朝日選書>、1991年、ISBN 4022595302

    * 荒俣宏「世界のクマグス、日本の熊楠」『小学館版 学習まんが人物館 南方熊楠—自然を愛した「人間博物館」』小学館、1996年、ISBN 4-09-270104-7

    * 紀田順一郎『日本博覧人物史—データベースの黎明』ジャストシステム1994年、ISBN 4883090779

    * 松居竜五・ワタリウム美術館 『クマグスの森—南方熊楠の見た宇宙』 新潮社、2007年。ISBN 9784106021657

 

外部リンク

 

    * 南方熊楠記念館

    * 田辺市 文化振興課 南方熊楠顕彰館

    * 南方 熊楠:作家別作品リスト(青空文庫)

    * 岡本清造『岳父・南方熊楠

    * 南方熊楠資料研究会

    * 南方熊楠顕彰館

    * 南方熊楠を知る事典』

    * 関連記事

 

 

No.576 オーストラリアには10分経つと勝手に扉が開いてしまう公衆トイレがある(番組評価 71/100へえ)

オペラハウスから車で15分のところにあるフィッツロイ公園の隣にあるこのトイレ、シドニーでは「ハイテクトイレ」と呼ばれていて、10分経つとサイレン音とともにドアが開く仕組みになっています。トイレの中で麻薬をやったりイチャイチャするカップルがいていつまでも出てこないので自動で開くようにしました。そのほか、20回使用されると壁から石鹸入りの水が出て床や壁などを8分間自動的に清掃する機能や10分経つと警察に自動通報ができる機能もつけられています。まあ、なかなか10分かかることはないだろうけど、時間を気にして用を足すのは嫌だなあ。1セットの値段は25万ドル、日本円でおよそ2600万円です。はい、そこ! 自分の家やマンションの資産価値と比較しないっ!

 

 

 

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南方熊楠1/2

2010/03/17 05:20

 

 

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0317

 

誕生花 デージー(赤) 花言葉 無意識

 

誕生石 エメラルド 石言葉 精神の安定

 

南方熊楠1/2

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867518日(慶応3415日) - 1941年(昭和16年)1229日)は、日本の博物学者、生物学者(とくに菌類学)、民俗学者。菌類学者としては動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ粘菌の研究で知られている。主著『十二支考』『南方随筆』など。投稿論文や書簡が主な執筆対象であったため、平凡社編集による全集が刊行された。「歩くエンサイクロペディア(百科事典)」と呼ばれ、彼の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。

 

人物と学績

 

子供の頃から、驚異的な記憶力を持つ神童だった。また常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を越える本を見せてもらい、それを家に帰って記憶から書写するという特殊な能力をもっていた。何日も家に帰らず山中で昆虫や植物を採集することがあり、「てんぎゃん(天狗)」というあだ名があった。旧制中学入学前に『和漢三才図会』『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』『太平記』を書き写した筆写魔(ただし、『和漢三才図会』のみは筆写完了は旧制中学在学中)であり、また、旧制中学在学中には漢訳大蔵経を読破したといわれる。

 

彼のその学風は、ひとつの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、土蔵や那智山中にこもっていそしんだ研究からは、曼荼羅のような知識の網が産まれた。1892年にはイギリスにわたって、ロンドンの天文学会の懸賞論文に1位で入選した。大英博物館東洋調査部に入り、資料整理に尽くし、人類学・考古学・宗教学などを独学するとともに、世界各地で発見、採集した地衣・菌類に関する記事を、科学雑誌「Nature」などに次々と寄稿した。帰国後は、和歌山県田辺町(現、田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を、広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較人類文化学を展開した。菌類の研究では新しい種70種を発見し、また、自宅の柿の木では新しく属となった粘菌を発見した。民俗学の研究では、『人類雑誌』『郷土研究』『太陽』『日本及日本人』などの雑誌に数多くの論文を発表した。

 

彼にまつわるエピソードは膨大である。エキセントリックな行動が多く、酒豪であったが、半面、酒にまつわる失敗も少なくなかった。語学にはきわめて堪能で英語、フランス語、ドイツ語はもとよりサンスクリット語におよぶ19ヶ国語の言語を操ったといわれる。また、田辺では、1906年末に布告された「神社合祀令」によって神社林(いわゆる「鎮守の森」)が伐採されて生物が絶滅したり、また生態系が破壊されてしまうことを憂い、1907年より神社合祀反対運動を起こした。今日、この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の先がけとして高く評価されており、その活動は、2004年に世界遺産(文化遺産)にも登録された熊野古道が今に残る端緒ともなっている。なお、江戸川乱歩、岩田準一とともに男色(衆道)関連の文献研究を行ったことでも知られている。

 

年譜

 

    * 1867年(慶応3年)415 - 和歌山城下橋丁(現、和歌山市)に金物商・雑賀屋を営む弥兵衛(後に弥右衛門と改名)、すみの次男として生まれる。熊楠の「熊」は熊野本宮大社、「楠」はその神木クスノキにちなんでの命名という

    * 1873年(明治6年) - 雄(おの)小学校(現、和歌山市立雄湊小学校)に入学 

    * 1876年(明治9年) - 雄小学校卒業、鐘秀学校[1]に入学。岩井屋・津村多賀三郎から『和漢三才図会』105巻を借覧、記憶して筆写を始める。この他12歳迄に『本草綱目』、『諸国名所図会』、『大和本草』等をも筆写

    * 1879年(明治12年) - 和歌山中学校(現、和歌山県立桐蔭高校)に入学。教師鳥山啓から博物学をすすめられ、薫陶を受ける

    * 1880年(明治13年) - 英語の本を参考にし、和漢の書籍と見比べて自作の教科書『動物学』を書き上げる

    * 1881年(明治14年) - 『和漢三才図会』をうつし終える

    * 1883年(明治16年) - 和歌山中学校を卒業し上京。神田の共立学校(現、開成高校)入学。当時の共立学校は大学予備門入学を目指して主として英語によって教授する受験予備校の一校で、クラスメートに幸田露伴の弟の成友らもおり、高橋是清からも英語を習った。この頃に世界的な植物学者バ−クレイが菌類6000点集めたと知り、それ以上の標品を採集し、図譜を作ろうと思い立った

    * 1884年(明治17年) - 大学予備門(現・東京大学)に入学。同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之、寺石正路、芳賀矢一、山田美妙、本多光太郎などがいた。熊楠は、学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れる。父・弥右衛門が南方酒造(後の世界一統)を創業

    * 1885年(明治18年) - 日光へ植物採集旅行

    * 1886年(明治19年) - 中間試験で落第したため予備門を中退、和歌山へ帰郷

          o 1222 - 神戸港より渡米 

    * 1887年(明治20年)17 - サンフランシスコ着。パシフィック・ビジネス・カレッジに入学

          o 8 - ミシガン州ランシング市州立農大入学

    * 1888年(明治21年) - 寄宿舎での飲酒を禁ずる校則を違反して自主退学。ミシガン州アナーバー市に移り、動植物の観察と読書にいそしむ。この間、シカゴの地衣類学者カルキンスに師事して標本作製を学ぶ

 

    * 1891年(明治24年) - フロリダ州ジャクソンヴィル市に移り、生物を調査。中国人、江聖聡の食品店で住み込みで働く。新発見の緑藻を科学雑誌『Nature』に発表、ワシントンD.C.の国立博物館から譲渡してほしい旨の連絡がはいる

          o 9 - キューバに渡り採集旅行。石灰岩生地衣を発見(「グァレクタ・クバーナ」と命名)。サーカス団員として中南米旅行

    * 1892年(明治25年)1 - フロリダにもどり江聖聡と再び同居

          o 9 - イギリスに渡る

          o 928 - イギリスで、88日に死去した父・弥右衛門の訃報を受ける

    * 1893年(明治26年) - 科学雑誌『Nature』に初めて論文「極東の星座」を寄稿。フランクスと知り合い大英博物館に出入りするようになる。考古学、人類学、宗教学などの蔵書を読みふける日々が続く

    * 1895年(明治28年) - ディキンズと知り合う。大英博物館で東洋図書目録編纂係としての職を得る

    * 1896年(明治29年)227 - 母すみ、なくなる

 

    * 1897年(明治30年) - ロンドンに亡命中の孫逸仙(孫文)と知り合い、親交を始める(孫文32歳、熊楠31歳)

    * 1898年(明治31年) - 大英博物館で暴力事件をおこす

    * 1900年(明治33年) - 大英博物館を出入り禁止となる。14年ぶりに日本に帰国。大阪の理智院(泉南郡岬町)次いで和歌山市の円珠院に居住する

    * 1901年(明治34年) - 孫文が和歌山に来訪し、熊楠と再会して旧交をあたためる

    * 1902年(明治35年) - 熊野にて植物採集、採集中に小畔四郎と知り合う。田辺を永住の地と定める。多屋勝四郎らと知り合う

    * 1903年(明治36年) - 論文「燕石考」完成

    * 1904年(明治37年) - 田辺に家を借りる

    * 1905年(明治38年) - ディキンズとの共訳『方丈記』完成

    * 1906年(明治39年) - 田辺の闘鶏神社宮司田村宗造の四女松枝と結婚(熊楠40歳、松枝28歳)

    * 1907年(明治40年) - 前年末発布の神社合祀令に対し、神社合祀反対運動をおこす

          o 7 - 長男熊弥誕生

    * 1909年(明治42年)9 - 新聞「牟婁新報」に神社合祀反対の論陣を張る

    * 1910年(明治43年) - 紀伊教育会主催の講習会場に押し入り、翌日「家宅侵入」で逮捕。監獄で新種の粘菌を発見したという

 

    * 1911年(明治44年) - 柳田國男との文通がはじまる(1913年までつづく)。9月、柳田『南方二書』を出版

          o 1013 - 長女文枝誕生

    * 1912年(明治45年) - 田辺湾神島(かしま)が保安林に指定される

    * 1913年(大正2年) - 柳田國男、田辺に来て熊楠と面会する(熊楠47歳、柳田39歳)

    * 1914年(大正3年) - 『十二支考』連載(1923年まで)

    * 1915年(大正4年) - アメリカ農務省スウィングルが田辺を来訪し、神島を共同調査

    * 1916年(大正5年) - 田辺に常楠(弟)の名義で家を買う

    * 1917年(大正6年) - 自宅の柿の木で粘菌新属を発見

    * 1920年(大正9年) - 小畔四郎らと高野山の菌類などを調査する

    * 1921年(大正10年) - 粘菌新属を“ミナカテルラ・ロンギフィラ”(Minakatella longifila、長糸南方粘菌)と命名される。命名者は大英博物館の粘菌学者グリエルマ・リスター女史であった

    * 1922年(大正11年) - 南方植物研究所設立資金募集のため上京

    * 1926年(大正15年) - 『南方随筆』刊行。イタリアのプレサドラ大僧正の菌図譜出版に際し、名誉委員に推される

    * 1929年(昭和4年) - 紀南行幸の昭和天皇に田辺湾神島沖の戦艦長門艦上で進講。当初の予定は25分間であったが、天皇の希望で5分延長された

    * 1930年(昭和5年)6 - 天皇行幸を記念して自詠自筆の記念碑を神島に建立する

    * 1935年(昭和10年)1224 - 神島が国の天然記念物に指定される

    * 1941年(昭和16年)1229 - 自宅にて死去。死因は萎縮腎であった。享年75(満74歳没)。田辺市稲成町の真言宗高山寺に葬られる。

 

つづく

 

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牧野富太郎

2010/03/16 09:54

 

 

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0316

 

誕生花 ハナズオウ 花言葉 裏切り。疑惑

 

誕生石 ローズ・クォーツ 石言葉 愛を伝える

 

牧野富太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

牧野 富太郎(まきの とみたろう、文久2424(1862522) - 1957(昭和32)118日)は、日本の植物学者。高知県出身。

 

「日本の植物学の父」と言われ多数の新種を発見し命名も行った、近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして「牧野日本植物図鑑」に代表される多数の著作として残っている。小学校中退でありながら理学博士の学位も得、生まれた日は「植物学の日」と制定された。

生涯

 

文久2年(1862年)、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の裕福な商家に生まれ、幼少の頃から植物に興味を示していた。

 

10歳より寺子屋、さらに塾で学びその後12歳で小学校へも入学したものの2年で中退、好きな植物採集に明け暮れる生活を送るようになる。

 

植物の採集、写生、観察など研究を続けながら、欧米の植物学も勉強し、当時の著名な学者の知己も得るようになる。22歳のときには東京帝国大学(現東大)理学部植物学教室に出入りするようになり、やがて25歳で共同で「植物学雑誌」を創刊した。その後26歳でかねてから構想していた「日本植物志図篇」の刊行を自費で始めた。今でいう植物図鑑のはしりである。

 

27歳で新種のヤマトグサに学名をつけ植物学雑誌に発表した。明治23年(1890年)、28歳の時に東京の小岩で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中に見慣れない水草を採集する機会を得た。これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。31歳で帝国大学理科大学の助手となり、その後も各地で採集しながら植物の研究を続け多数の標本や著作を残していく。ただ学歴のないことと、大学所蔵文献の使い方(研究に熱中するあまり、参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり厚遇はされず、経済的にも苦しかった。大正元年(1912年)から昭和14年(1939年)まで東京帝国大学理科大学講師。

 

65歳で東京大学から理学博士の学位を授与され、同年に発見した新種の笹に翌年亡くなった妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。78歳で研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行、この本は改訂を重ねながら現在も販売されている。

 

昭和25年(1950年)、日本学士院会員。昭和26年(1951年)、89歳のとき、第一回の文化功労者となる。昭和28年(1953年)、東京都名誉都民。

 

昭和32年(1957年)118日、94歳で死去、没後従三位に叙され、勲二等旭日重光章と文化勲章を授与された。墓所は東京都台東区谷中の天王寺。

 

その他エピソード

 

    * 植物だけではなく鉱物にも興味を持ち、音楽については、自ら指揮をとり演奏会も開き、郷里の音楽教育の振興にも尽力した。

    * 植物研究のため、造り酒屋であった実家の財産も使ったが、東京に出る際に親戚に譲った。後に困窮し已む無く妻がはじめた料亭の収益も研究につぎ込んだという。その料亭の件や、当時の大学の権威を無視した出版などが元で大学を追われたこともある。しかし学内には、牧野の植物に対する情熱とその業績を高く評価する人も多く、78歳まで実に47年の間、東大植物学教室になくてはならない講師として、日本の植物学に貢献した。

    * 牧野の金銭感覚の欠如や、周囲の人に対する彼の破天荒な行動にまつわるエピソードは数限りないが、今日客観的な立場から見ると、牧野を追い出し、狭量で官僚的な人間として悪者扱いされた松村任三にも、腹に据えかねる事があったのだろう。事実、牧野自身、若き日研究に邁進するあまり、周囲に対する配慮を欠いていたことを認めている。しかし後年、松村が明治初頭の植物学の第一の功労者であり、東大植物学教室の基礎を築いた人であると、賞賛したのも他ならぬ牧野なのである。

 

田中芳男と牧野富太郎

 

牧野は、明治16年(1883年)、第二回内国勧業博覧会見学のため上京し、その際、文部省博物局を訪ね田中芳男と小野職愨に小石川植物園を案内してもらっている。地方の植物好きの一青年が、3年後にコーネル大学に留学し東京大学理学部植物学教室の誇り高き教授、矢田部良吉の許しを得て、この教室に出入りできるようになったのは、田中芳男と田中の師である伊藤圭介の力があったようだ。博物館行政や多くの勧業殖産に貢献し、後に貴族院議員になった田中芳男と富太郎は、本の貸し借りをするなど親しく交友があり、それは24歳年上の田中が亡くなるまで続いたのである。

 

発見、命名した植物

 

命名は2500種以上(新種1000、新変種1500)とされる。自らの新種発見も600種余りとされる。

 

    * 発見、命名した植物の例

 

    ムジナモ、センダイヤザクラ、トサトラフタケ、ヨコグラツクバネ、アオテンナンショウ、コオロギラン、スエコザサ

 

和名については、ワルナスビやノボロギクのような、当該植物種の性質を短い言葉でうまく言い表しているものもある一方でハキダメギクなど、発見場所を付けただけの命名もある。イヌノフグリのように意味を考えると(犬の陰嚢の意ゆえ)少々破廉恥なものもあるが、この植物の場合はもとは和歌山県における同種の方言からとったものではある。

 

亡き妻の名を冠したスエコザサのエピソードはよく知られているが、一貫して学問に真摯な態度で臨んだ牧野からすればこうした学問の場以外の私情を挟んだ献名は例外的であり、研究を支え続けてくれた妻への強い感謝の気持ちが伝わってくる。また生き別れになった愛人お滝を偲んでアジサイに Hydorangea macrophylla Ser.va.Otakusa の学名を命名したシーボルトについて、Otakusa の由来をシーボルトは日本での地方名だと著書に述べていたものが事実に反し、お滝に献名したものであることをつきとめたのも牧野である。

 

書籍

 

    * 牧野新日本植物図鑑    ISBN 4832600109

    * 原色牧野日本植物図鑑 1-3 ISBN 4832600443

    * 牧野富太郎植物記(中村浩編)

 

関連施設

 

    * 高知県立牧野植物園

 

    高知市五台山に没後1年目の1958年に牧野富太郎自身の意向も反映し開園、敷地は当初は2ha現在は6haに拡張され、1500種、13000株の植物が植えられている。

 

    * 牧野富太郎記念館

 

    上記、植物園内の付属施設で、本館と展示館の二つの建物に分かれる。本館には蔵書約45千冊、直筆の原稿、写生画等、58千点が収められた牧野文庫を始め、植物に関する研究室などがある。展示館では牧野富太郎の生涯に関する展示などがある。

    建築設計は、内藤廣による。

 

    * 練馬区牧野記念庭園

 

    牧野の東京練馬区東大泉の自宅跡地を一般公開したもの。340種あまりの植物が植えられている。

 

    * 東京都立大学牧野標本館

 

    没後、寄贈された40万点の標本が収蔵されている。一部は画像データベース化され一般公開もされている。

 

    広島県北広島町八幡(旧芸北町内)の臥龍山麓八幡原公園に1999年、牧野富太郎が詠んだ句碑が建立された。句碑に刻まれた句は、牧野が1933年に初めて八幡を訪れた際、湿地一面に咲くカキツバタの自生地を見て感激し詠んだものとされる。

 

外部リンク

 

    * 牧野 富太郎:作家別作品リスト(青空文庫)

    * 高知県立牧野植物園

    * 牧野富太郎 | 近代日本人の肖像(国立国会図書館)

 

 

No.575 郵便局の配達人は昔拳銃を持っていた(番組評価 74/100へえ)

明治時代の法律が記載された「法規分類大全」には「(訳)郵便物保護銃は郵便物に危害がある時に正当防衛をするため郵便局の配達人にこれを携帯させる」とあります。明治政府は明治4年(1871年)から新しい郵便制度を発足させましたが、郵便物の中にお金などの貴重品が入っていると思った強盗が配達人を惨殺する事件が続いたため、明治6年(1873年)配達人に六連発短銃の携帯が認められました。その後現金書留を配達するようになり、配達人が実際に現金をたくさん持っている機会が増えたため、明治20年(1887年)「郵便物保護銃規則」が制定され、郵便物の安全のほか、自分の身を守るための使用が認められました。ちなみに、警察官に短銃の携帯が認められたのは大正12年(1923年)のことで、郵便局員の携帯が認められた半世紀後になります。

 

 

 

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李承晩ライン3/3

2010/03/15 05:16

 


 

李承晩政権時代の主要産業となったのは、アメリカの経済支援(原資)に依った「三白産業」(製粉・精糖・紡績)であった。原資は「実需要者制」に従い、割り当てられるはずだった。しかし、実需要者の中でも政治力のある業者団体が独占的にそれを受けることになり、その原資すら企業の中でも圧倒的な財力を誇る財閥系の企業が独占的に買い取る形になっていた。それをさらに後押しする形になったのが、公定為替レートと実勢レートの不均衡(ドルの過小評価、ウォンの過大評価)と李承晩政権の打ち出した低金利政策で、特定の財閥が肥えることになった。これらの手厚い保護を受けた財閥系の企業による「三白産業」は圧倒的な速度で工業化し、1957年には経済成長率8.7%に達したが、李承晩政権の末期には、過剰設備投資が顕在化し、深刻な不況が起きた。この事から、1961年の朴政権成立まで、一人当たりのGNP80ドル前後に止まる事となる。

 

農業政策はほぼ無策で、工業政策の踏み台に近かった。インフレ抑制の一環として、低米価政策が取られたが、これは「三白産業」の発展を利すものであり、農業従事者の賃金の低下/不安定化を招き、春窮農民が増大化することになった。李承晩政権の末期には、春窮農民が農業従事者の半数に達した[要出典]

 

このような経済状況を反映してか、当時の韓国では戦争末期の日本と同様に砂糖が大変な高級品とされており、外国人記者団との会談の最中にコーヒーと角砂糖が差し出され、外国人記者達が自国で行っている通りに、複数の角砂糖をコーヒーの中に入れている光景を目の当たりにして、「あなた方の国ではコーヒーの中に砂糖を入れるようだが、私どもの国では砂糖の中にコーヒーを入れる」といった自虐的とも取れるジョークを発言したことがある。[19]

 

対日政策

 

李承晩は、朝鮮の独立運動に関わっていたという経歴から分かる通り、日本を激しく嫌った。[20]

 

李承晩政権は日本との国交正常化には消極的で、結果的に日本からの公の経済援助を得る機会を大幅に遅らせることになった。交易拡大についても消極的で、外貨流出や北送事業(北朝鮮帰国運動)への抗議を理由に、19558月〜19561月、19596月〜19604月に日本と通商断交している。また、19598月には「日本は人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権の共産主義建設を助けようとしている」と非難し、予定されていた日韓会談の中止を指示した。

 

後の朴正煕政権は日本との妥協点を模索し、日韓基本条約を交わした。日本からの多額の無償経済援助や借款を得るとともに、対日貿易が経済発展の唯一の方法として積極的に推進した。このような朴正煕政権の政策と対比して、李承晩政権の対日政策と1950年代の経済低迷との因果関係が指摘されている。[21]

 

李承晩政権は、おおむね旧植民地官僚であったエリート(現在では親日派とされる)により構成されていて、政治と癒着していた企業も、現在では親日派とされることが多い。今日の韓国教科書では「李承晩政権は反共に徹するあまり、親日派の処分が不十分であった」といった趣旨の記述があり(金大中も自著の中で同じ内容の批判を述べている)、親日派の糾明は現代の韓国で主要な政治議題となっている。(→日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法)

 

代表的な対日政策の一つに1952年の一方的な海洋主権宣言、いわゆる「李承晩ラインの設定」がある。日本が戦後の混乱期にある間に豊富な水産資源の漁場の確保とともに、日本の竹島が韓国が主権を主張する『獨島』として国際法違反の武装占拠し実効支配下におかれた。これにより日本船がたびたび拿捕され、多くの罪の無い日本人が韓国側に多数殺害された。このような韓国の卑劣な手段で実効支配された竹島の処遇は当然現在に至るまで日韓の懸案問題になっているが、日本国民の希薄意識により占拠後50年を超えていまだに解決に至る積極的な日本政府の関与はない。

 

領土問題に関しては、他にも「対馬も韓国領土」「沖縄は韓国固有の領土である」などと発言したり、朝鮮戦争の際にも「釜山が陥落したら、福岡に亡命政府を置く」などと主張して、幾度となくマッカーサーから叱責を受けていたほど、日本を占領したいと発言している。

 

また、日本の大衆文化を「公序良俗に反する表現」として規制した。その結果、日本の大衆文化を剽窃したものや海賊版などが横行する事態に陥った。著作権の概念が一般に浸透し、また金大中政権以降、段階的に日本の大衆文化の開放が行われるようにはなった事もあって絶対数は減ったが、現在でもたびたび日本などの先進国から問題視され、不法な著作権侵害は未だ減る気配はなく、二大市場には今でもまがい物が多数売られており減る様子は一向にない。

 

年譜

 

    * 桃洞書堂で漢学を学ぶ。

    * 1896年(明治29年)アメリカ人宣教師が設立した培材学堂で学び始める。

    * 1896 徐載弼(ソ・ジェピル)の「独立協会」の結成に中心メンバーとして加わる。

    * 1897年(明治30年) 培材学堂在学中に高宗退位要求の檄文散布に加わり投獄される。投獄中にプロテスタントの監理教会派に入信。

    * 1904年(明治37年) 渡米。

    * 1907年(明治40年) ジョージ・ワシントン大学卒(学士)。

    * 1908年(明治41年) ハーバード大学卒(修士)。

    * 1910年(明治43年) プリンストン大学で政治学博士号を得る。博士論文は「アメリカの影響を受けた永世中立論」。この年、帰国する。

    * 1911年(明治44年) 寺内正毅総督暗殺計画に連座して投獄される。

    * 1912年(明治45年) アメリカに亡命。

    * 1919年(大正8年) 上海で大韓民国臨時政府樹立。李承晩によってワシントンに欧米委員部設立。

    * 1920年(大正9年)大統領に推される。しかし派閥抗争から失脚。ハワイに拠点を移す。

    * 1933年(昭和8年)満州事変を討議する国際連盟総会に臨時政府全権代表として出席。

    * 1934年(昭和9年)オーストリア人のフランチェスカ・ドナーと結婚。

    * 1941年『日本の内幕記』を著す。日本の対米宣戦を予告。

    * 1945年(昭和20年)10 帰国。

    * 1946 2 大韓独立促進国民会を結成。総裁に就任。

    * 1948年(昭和23年)813 大韓民国成立 初代大統領に就任。

    * 1948年(昭和23年)10 日本を非公式訪問(マッカーサーGHQ司令官などと会談のため)。

    * 1952年(昭和27年)118 海洋主権宣言。いわゆる李承晩ラインを設定。

    * 1952年(昭和27年)526 戒厳令を施行し、反対派議員を監禁・憲法改正を強行(五・二六政治波動)。

    * 1956年(昭和31年)515日 大統領に3選。副大統領には野党の張勉が当選。

    * 1958年(昭和33年)進歩党党首の奉岩をスパイ容疑で逮捕。19597月に処刑。

    * 1960年(昭和35年)315日 大統領選挙。不正選挙が問題となり野党や国民の批判が公然化。

    * 1960年(昭和35年)419日 不正選挙を糾弾するデモ隊と警官隊が衝突。死者186人。426日に下野を表明し、529日にハワイへ亡命(四月革命)。

    * 1965年(昭和40年)719 ハワイにて客死。享年90

 

注釈

 

   1. ^ 通常日本では「りしょうばん」と音読みすることが一般的だが、1990年代以降は韓国の要求により、朝鮮語読みである「イ・スンマン」が積極的に使われることが多くなった。また、北朝鮮では「リ・スンマン」と呼ばれるほか、本人の英文の署名は Seungman Rheeである。朝鮮語は漢字語の読み方の規則が南北で一部異なっているためである。

   2. ^ これは朝鮮王位(韓国皇帝位)継承権を持つ傍系王族の一人であることを意味する。

   3. ^ 呂運亨の項目を参照。

   4. ^ 湖南財閥はこの時期、最大の朝鮮人資本である。湖南財閥がつくったものに東亜日報・高麗大学などがある。

   5. ^ 韓民党の臨政との決裂から李承晩への接近に至る過程は木村幹, 韓国における「権威主義的」体制の成立-李承晩政権の成立-, ミネルヴァ書房, 2003, 2章第4節に詳しい。

   6. ^ 建国準備委員会のリーダー呂運亨は左右両翼による統一戦線の維持に腐心し、アメリカ軍政が左派・共産主義者の排除を意図していることを意識して、自らは中道派として振る舞い、建準の路線も中道へと切り替えようとした。

   7. ^ 旧植民地官僚は、いわゆる「親日派」に該当する。

   8. ^ 木村幹, 前掲書, p.118

   9. ^ 北朝鮮国内での中国人義勇兵が問題化していたこともそう判断した理由の一つかもしれないし、単に日本嫌いを軸に悪意あるすり替えをしただけなのかもしれない。

  10. ^ 神谷不二『朝鮮戦争

  11. ^ 木村幹, 前掲書, 3章第5節。

  12. ^ 李政権崩壊後に政権上層部が関与を認めている

  13. ^ 進歩党の党首、19581月に国家保安法違反容疑で逮捕、後にスパイ容疑に切り換え

  14. ^ 余談だが、朴正煕の息子もまたパターンは違うが、問題の多い人物だった。

  15. ^ 朝鮮日報社『韓国現代史119事件』

  16. ^ グレゴリー・ヘンダーソンは米占領軍の通訳としても働いた朝鮮政治研究の先駆者。日本語訳著書に『朝鮮の政治社会-渦巻型政治構造の分析』(鈴木沙雄・大塚喬重訳、サイマル出版会、1973年)がある。

  17. ^ 李氏朝鮮は小国主義を貫き、冊封体制を執った。

  18. ^ 1950年代と1960年代の断絶のみならず連続性の観点から、経済面での李承晩を再評価する機運が1990年代から徐々に高まってもいるが、それは李承晩が始めた反日政策を評価するものであって、それ以外の何者でもない。- 李鍾元『東アジア冷戦と韓米日関係』(東京大学出版会、1996年。金三洙『韓国資本主義国家の成立過程 1945-53年 政治体制・労働運動・労働政策』東京大学出版会、1993年。木村幹、前掲書。

  19. ^ 尹浩根『恨半島—ある外交官の生き方』

  20. ^ 1954年のサッカーワールドカップアジア予選で「植民地支配した日本人を領土に入れるわけにはいかない」として敵地日本で2試合戦うことを条件にサッカー韓国代表の参加を許した。当時の代表監督に「もし負けたら、玄界灘に身を投げろ」と言ったというエピソードが有名である。

  21. ^ 丁振聲「1950年代の韓日経済関係 —韓日貿易を中心に—」[1]

 

[編集] 参考文献

 

    * 神谷不二『朝鮮戦争』中央公論社、1966

    * 菊池正人『板門店』中央公論社、1987

    * 金星煥・植村隆『マンガ韓国現代史 コバウおじさんの50年』

    * 渡辺利夫『韓国 ヴェンチャー・キャピタリズム』

    * 李泳采・韓興鉄『なるほど!これが韓国 名言・流行語・造語で知る現代史』

    * 長田彰文『セオドア・ルーズベルトと韓国韓国保護国化と米国』未来社、1992

    * 長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係—朝鮮独立運動とアメリカ 1910-1922』平凡社、2005

    * 尹浩根『恨半島—ある外交官の生き方』エネルギーフォーラム、2002

 

関連項目

 

    * 朝鮮の歴史

    * 韓国現代史年表

    * 反共主義

 

 

No.574 男性の思春期の始まりは医学的に「キンタマの容量が4mlを超えた時」と定義されている(番組評価 58/100へえ)

子供の体に関する医学書「小児科学」の性発育についての欄には「思春期年齢に至ると二次性徴が発現し、…15歳ごろまでにはすべての男児が精巣容積4mL以上を獲得する。この二次性徴の出現をもって思春期のはじまりと判定する」とあります。この思春期、早い人では9歳、遅い人でも15歳くらいまでには迎えるんですが、ボクは13歳か14歳でしたね。で、4mlとはちょうどうずらの卵より少し小さいくらいになります。そして思春期を迎えても成長は続き、成人になると精巣の容量が1012mlに達します。これはだいたいプルーンくらいの大きさです。ボクは。そこまで大きくない、と思うけど。あんまり触るところじゃないもんね。逆に、潰しそうで怖い。ま、個人差があるんで心配しなくてもいいですよね?

 

 

 

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李承晩ライン2/3

2010/03/15 05:14

 

 

李承晩と韓民党の連合は建準で勢力を誇っていた左派と、その他の臨時政府出身者に対抗し、解放直後のソウル政界で主導権を握った [6] アメリカ軍政が最も嫌った左派の排除に成功した李承晩と韓民党は、1948510日に行われた国連監視下での総選挙に臨んだ。この選挙は大反対の中で強行された。各地で反対派による武装闘争が展開された。選挙に至る過程で起きた最も悲惨な事件が済州島四・三事件である。済州道では選挙を妨害する左派と政府軍との間で衝突がつづき内乱に近い状態に陥った結果、数万人の島民が犠牲になった。

 

総選挙によって李承晩と韓民党は制憲議会の多数を制した。そこで制定された第一共和国憲法は議会が大統領を選出すると定めていた。

 

1948813日、アメリカ合衆国の後押しで大韓民国が建国された。李承晩は議会多数の支持を得て初代大統領に就任した。政権は地主・資本家および旧植民地官僚[7]を勢力基盤としていた。

 

政治的対立

 

李承晩は失脚の瞬間まで独裁的に振る舞った。韓国国内は政治的対立で揺れつづけた。対立派は多くの場合、反体制派というよりもむしろ議会政治家たちであった。

 

最初の対立は大統領制をとりつづけるか議院内閣制を採用するかを巡っておきた。李承晩を支えていた韓民党の多数は議院内閣制の採用を望んでいた。両者の対立はほどなくして抜き差しならないものになった。日本統治時代に普成専門学校(現在の高麗大学校で湖南財閥の一員)教授をし、ソウル大学校教授を兼務していた兪鎮午・憲法起草委員会議長は韓民党の意向を受け大統領を形式的な元首とする、議院内閣制に近い憲法草案を起草していたが李承晩により覆され、大統領中心制へと転換される。[8]

 

初代内閣組閣の時にも韓民党との対立は起こった。韓民党は金性洙を国務総理に推していたにも拘らず李承晩は李允栄を国務総理に任命、27120の大差で否決される。しかし、李承晩は続いて李範を国務総理に任命、11084で可決。初代内閣からは韓民党はほぼ排除され、金度演が財務部長官に任ぜられたのみとなった。

 

1949年には反李承晩勢力が団結して政界再編が起き、民主国民党が生まれた。民主国民党には臨時政府出身者の一部も加わり、申翼煕、趙炳玉らがリーダーとなった。民主国民党は改憲案を上程したが、在席者中3分の2の賛成を得られず、改憲案は否決された。

 

朝鮮戦争

 

李承晩は大統領就任前から「北進統一」を主張していた。この事から一昔前までは「朝鮮戦争は北進で起きたものか南侵で起きたものか」という議論が隆盛であった。しかし、1950年、いざ朝鮮戦争が勃発し、朝鮮民主主義人民共和国韓国に圧倒的な戦力で攻め込んでくると、韓国軍は瞬く間に総崩れになり、ソウルは陥落。釜山まで引くことになった。朝鮮戦争マッカーサーの「仁川上陸作戦」以降、東西冷戦下の代理戦争の様相を呈し始め、朝鮮戦争を望んでいた李承晩の存在感は徐々に薄れていった。

 

朝鮮戦争初期に韓国に侵入した北朝鮮兵は、その後、韓国内でパルチザン闘争を繰り返した。同民族によるパルチザン闘争の衝撃は強く尾を引いた。また、李承晩が傷病兵の慰問としてある病院を訪れた時、その中に韓国出身の在日朝鮮人の義勇兵が混ざっていた。李承晩が朝鮮語で慰問の言葉をかけたところ、その在日韓国人義勇兵はとっさの事で、朝鮮語が思い浮かばず、日本語で返事をした。李承晩は思いもかけない言葉で返事が返ってきたので「日本が密かに兵を送っている」[9]として、日本に対して抗議する声明を出したというエピソードがある。[要出典]

 

李承晩がエキセントリックな再登場を果たすのは、1953年、国連主導による休戦提案が出始めてからである。「停戦反対、北進統一」「休戦は国家的死刑」を口に最後まで休戦に反対し、北進統一論に基づいた朝鮮半島の民主主義による統一にこだわった。それを尻目に国連は粛々と休戦への道筋をつくり、68日に両軍の捕虜送還協定が締結された。しかし、李承晩は、618日にアメリカに何の予告も無く捕虜収容所の監視員に捕虜の釈放を指令。抑留捕虜25000人を釈放するという事件を起こした。正式に決まった協定を反故にする暴挙に、国際世論の非難が高まった。(送還と釈放の質的違いを説明されたい=>送還:本国に自国が責任を持って送り返すこと。 釈放:拘束を解いて自国内に解き放つこと。本国へ帰すことを意味しない。)

 

また、李承晩は北朝鮮内の中国人義勇兵が完全に排除されることも望み、早期休戦を望む国連/アメリカと激しく対立した。716日のソ連の新聞『ソヴィエト・ニュース』は「ここ三年というものは李承晩について聞いたことがなかった。三年の間、南朝鮮のすべての問題はアメリカ軍司令官だけによって指令されており、李承晩は、釜山の奥にいるアメリカ軍の裏庭あたりにおあずけになっていた。……ところが、いま突如として、李承晩はあまりに強大かつ強力であるため、<国連軍司令官もアメリカ大統領も、またアメリカ議会も彼とは太刀打ちできない>と発表されている。ぶざまな茶番劇が上演されているのだ」と伝えた。[10]

 

しかし、あまりにも強大で強力な李承晩は、件の捕虜釈放事件で孤立することになった。李承晩はやむなく休戦に同意(署名はしていない)し、727日に朝鮮戦争は休戦した。休戦後も李承晩はアメリカ議会に出向き、「北進統一」を訴えたが、もはや彼の言葉に耳を貸す者は誰もいなかった。

 

朝鮮戦争期の政争

 

朝鮮戦争のさなか、李承晩は湖南財閥から韓民党への資金供給を断つべく、京城紡績の預金引き出しを停止する。このために京城紡績は李承晩派に資金供給先を変更する。これによって韓民党は強力な経済的基盤を失うこととなる[11]

 

1952年になると再び議会との対立が激化した。政府は釜山に撤退していた。任期切れを控えていた李承晩は、憲法の再選禁止を撤廃するために、三選までを許す改憲案を上程した。これに対抗して野党は議院内閣制案を提出した。李承晩は戦時下の釜山に戒厳令を布告し、野党議員を大量に検挙した。195274日、国会が警察に包囲されているなか、与党議員がほとんどを占めている国会で改憲案は可決された。大統領の選出は直選制となった。このころまでに李承晩派は自由党を組織している。この時期、アメリカは戦時下において議会との対立を解消できない李承晩の排除を考え始めたと言われている。

 

独裁者/貴いお方

 

1954年当時の憲法では、大統領の任期は二期までで、三選は出来ない事になっていた。しかし、生涯大統領を望む李承晩及び与党自由党は「初代大統領にかぎって三選禁止規定を撤廃する」という改憲案を提出した。1127日の国会投票では、議員203人中、賛成135票、反対60票、棄権7票、無効票1票という結果になった。可決には議会の3分の2に至る135.33票以上、 136票が必要だった。惜しくも1票届かず、改憲案は否決されるはずだった。しかし、李承晩派の国会議長は、135.33票とは社会通念上の通念である四捨五入を用いれば135票であり、改憲に必要な3分の2を超えているとして改憲案の可決を宣言した。(四捨五入改憲)

 

1956年、李承晩が三選を狙った大統領選挙に際して、野党勢力は「もう生きられない、(政権を)変えてみよう」をスローガンに統一戦線を組み、民主党を結成した。一方、自由党は「替えたところで、変わらない」というスローガンで対抗した。

 

民主党は大統領候補に申翼煕、副大統領候補に張勉、自由党は大統領候補に李承晩、副大統領候補に李起鵬という布陣だった。

 

選挙直前の55日、民主党の大統領候補・申翼煕が遊説に向う途中の電車の中で脳溢血で倒れ、急死するというトラブルがあり、民主党は副大統領候補だけの選挙を余儀なくされた。官憲の介入もあり、選挙の結果、李承晩は大統領三選を果たしたが、副大統領の李起鵬は民主党の張勉に敗北。大統領が与党、副大統領が野党という一種のねじれ現象が起きた。

 

高齢の李承晩に万一の事態が起これば、副大統領の民主党の張勉が繰り上げて大統領になるため、自由党は危機感を抱いた。同年928日には退役軍人による張勉副大統領暗殺未遂事件[12]を起こし、1959430日には張勉系の野党紙「京郷新聞」を廃刊処分にするなど、李承晩は徹底的な政敵潰しを行った。同年7月には長年の政敵であった曹奉岩[13]を処刑している。

 

李承晩とフランチェスカ夫人に直接の子供はいなかったが、三期で落選・幻の第四期に副大統領を務めた李起鵬の長男・李康石を養子に迎えていた。「独裁者の息子」はたびたび問題を起こしていた[14]が、1957年、ソウル大学に特恵入学をする事が発覚すると、大騒ぎになった。しかし、誰にもそれを批判する事は出来なかった。「19578月、9月は李承晩政権の絶頂期。李康石は街の無法者となり、警察官を殴ったり、派出所の器物を壊して歩いても、誰も告発したり、処罰するものはいなかった。」[15]

 

その一方で、風潮に便乗する勇気ある若者も存在した。19578 月末、姜聖柄という22歳の男が李康石になりすまし、「父から密命で公務員の不正を調べている」と地方の知事や警察署長などを騙し、厚い接待を受けたり、金品を要求するという事件を起こした。事件発覚後、慶州知事の「貴いお方が一人でいらっしゃったのだから」という発言が取り沙汰され、「貴いお方」という言い回しが全国的に流行した。風刺四コマ漫画家の金星煥は「景武台の住人が貴いお方だったら、糞尿を運ぶ人も貴いお方」といった趣旨の独裁体制を暗に批判する四コマを発表した。金星煥は当局に4日間拘留され、国家元首侮辱罪で、罰金450ファンを払わされる事になった。

 

失脚

 

1960年、李承晩が四選を狙った大統領選挙に際して、野党の大統領候補・趙炳玉がアメリカで病気療養が長引いている(同年2月に客死)ことを見計らって李承晩は選挙期間を早めた。野党は「悲しみをおさめ、また戦場へ」をスローガンで国民に同情を訴えたが、与党は「ケチつけるな、建設だ」というスローガンで対抗した。この選挙では与党の不正工作はより徹底された。副大統領の当選を確実にするために公務員の選挙運動団体を組織し、警察にそれを監視させるなどの不正工作・不正投票などが横行した。

 

1960315日、大統領李承晩、副大統領李起鵬の当選が報じられると、特に不正がひどかった慶尚南道馬山では民主党馬山支部が「選挙放棄」を宣言。それは即座に不正選挙を糾弾するデモへと発展し、これに市民も参加。「デモは共産党主義者の扇動」を主張する当局がデモ隊に発砲し、8人死亡50人以上が怪我という惨事になった。411日、このデモを見物に行きそのまま行方不明になっていた高校生・金朱烈が、馬山の海岸で頭に催涙弾を打ち込まれた状態で遺体で発見された。市民・学生などは、当局に彼の死因を究明する要求を掲げ、再度デモを行ったが、当局は再び「デモは共産党主義者の扇動」とこれを鎮圧し、デモの主導者を逮捕した。(馬山事件)

 

馬山事件に抗議するデモは瞬く間に韓国中に飛び火し、418日には高麗大学とソウル市立大学の学生が国会前で座り込み(帰宅途中に暴漢に襲われ、多数の負傷者が出た)、翌419日にはソウルで数万人規模のデモが行われた。各主要都市でも学生と警察隊が衝突し、186人の死者を出した(419学生革命)。

 

420日、アメリカのマカナギー駐韓大使が景武台を訪れ、「民衆の正当な不満に応えないのなら、アイゼンハワーの訪韓を中止し、対韓経済援助を再考する」と、李承晩に対して事実上の最後通牒を突きつけ、頼みの綱だったアメリカにまで見放された形となる。423日には「行政責任者の地位を去り、元首の地位だけにとどまる」と完全に地位から退くことを否定する発言をし、民衆の怒りは最高潮に達する。

 

政府は各主要都市に非常戒厳令を布告した。デモは約1週間続き、425日には、ソウル大学を中心とした全国27大学の教授団が呼びかけた「李承晩退陣」を要求する抗議デモが発生、ソウル市民3万人が立ち上がり、韓国全土に一気に退陣要求の声が広がった。翌426日には、パゴダ公園にある李承晩の銅像が引き倒され、腹心である李起鵬副大統領の邸宅が襲撃される事態にまで発展。国会でも、大統領の即時辞任を要求する決議が全会一致で採択された。このことを受けて午前中に、李承晩はラジオで「国民が望むなら大統領職を辞任する」と宣言し、下野した。12年間続いた独裁体制はようやく崩壊することになった。

 

副大統領の李起鵬は428日に一家心中し、大統領の李承晩は529日に夫人を引き連れ、アメリカハワイに亡命した。1965719日、その地で李承晩は90年の生涯に幕を閉じた。因みに、フランチェスカ夫人は夫の没後韓国に戻り、1992319日にソウルにおいて92歳で死去している。

 

反共独裁

 

李承晩は、本来ならば「建国の父」と称えられるべき存在だが、それを不可にしたのは「長期の独裁」や「民衆の弾圧」などの要因があげられる。

 

李承晩の政策は李承晩個人の反共を軸にした「反共に執心して全く見えてない」物だった。李承晩は南半部による単独政権をまず樹立し、さらに軍事力による北半部の併合を構想した(北進統一論)。朝鮮民主主義人民共和国が建国されても、それを国家として認めず、反国家団体による不法占拠であるとしたうえで、大韓民国は朝鮮半島における唯一の合法的な国家であるとし、国連もこれに従った。

 

朝鮮戦争の前後から、反共政策・プロパガンダは激しさを増した。激しい戦禍を経験した韓国社会には共産主義者を敵視する強い反共意識が芽生え、これはほぼ国民的合意となった。

 

李承晩は生涯大統領を望んだ。建国の父となるべき反共の大統領は、次第に非民主的・権威主義的な性格を現し始めた。憲法改正を強行してまで大統領でありつづけようとし、選挙への不正介入を繰り返し、国会での政敵や選挙の民主化・不正の真実を求める民衆を「容共的」「北のスパイ」「平和統一論を唱えた」「パルゲンイ(共産主義者の蔑称)」等と斬り捨て、激しく弾圧した。しかし、最終的に、彼を大統領の座・建国の父の座から追い落とすことになったのは、419学生革命での民衆の力であった。

 

李承晩政権下の混乱を観察したグレゴリー・ヘンダーソン[16]は、日本による植民地統治の歴史は朝鮮の政治意識・構造を変えることがなかったと考え、李承晩政権は朝鮮の伝統的政治体質を引き継ぐ物と指摘した。

 

独裁者李承晩は「本当に貴いお方」朝鮮国(朝鮮王朝)最後の王位継承者李垠とその夫人李方子の帰国を許さなかった。王政復古を疑っていたという側面もあるが、李承晩には、朝鮮半島の2度の支配(日本による併合、米軍による軍政)から大韓民国という独立国家を立ち上げたプライドがあった。李氏朝鮮時代の残滓、特に属国主義[17]などは真っ先に忌諱すべきもので、それを支えていた王家の人間などは、自分が築き上げた独立国家に入国させるべきではないと考えていたが、当時の大韓民国に政治を運営する能力のある人間もない上に、財政基盤も日本が撤退してからは世界最低の最貧国のひとつに数えられるほど貧しく、アメリカの後ろ盾や援助なしには国の運営もままならない状態であったことは有名である。そのためアメリカに見放されると、傀儡政権でしかなかった彼には国を運営することもできず、亡命するに至った。李承晩には大清皇帝功徳碑を恥さらしだと埋めた逸話が残っている。

 

しかし、李承晩とその他の政治家との対立を、かつての李氏朝鮮時代における王(君主)と両班(官僚-貴族層)との権力争いになぞらえる論者、『朝鮮王朝最後の君主』とする論者も多数存在する。事実、李承晩の政権は、文治国家であった李氏朝鮮の系譜の延長線上にあった。その系譜が絶たれるのは、次の独裁者朴正煕の軍事政権でのことである。

 

経済政策

 

大韓民国建国後、李承晩が真っ先に取り組むべき課題は経済政策のはずだった。しかし、李承晩は前述の通り、反共に明け暮れ、経済政策を疎かにした。日本からの多額の無償援助や借款による急速な経済発展を達成した朴正煕と比べて経済の停滞を解消できなかったとして韓国内での評価はきわめて低く、「漢江の奇跡」に象徴される躍進の1960年代とは対照的に、停滞の1950年代ととらえられることが多かった。[18]

 

韓国併合時代に日本が建設した重化学工業施設の多くは、鉱物資源が比較的豊富な朝鮮半島北部に集中して位置し、朝鮮半島南部は工業施設と日本が建設した道路・橋・港湾施設の他はただただ農地と日本が積極的に植林をした元禿山のみだった。建国直後の大韓民国は、非常に困難なスタートを余儀なくされた。そこに追い討ちをかけたのが朝鮮戦争で、農地も敢え無く荒廃し、社会インフラ(港・道路・橋)なども破壊することとなった。李承晩は朝鮮戦争の休戦を同意(署名は最後まで拒否)する事を条件にアメリカに経済支援を迫った。

 

休戦直後、アメリカ大韓民国は米韓相互安全保障協定を締結し、アメリカからの多大な経済支援が行われた。資源が全く存在しない大韓民国は当面の間、それに依存した「非自立経済」の形を取らざるを得なかった。李承晩自身がアメリカの傀儡であり、アメリカの後ろ盾によって大統領の座に就いていたのは有名である。

 

つづく

 

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